暴走が止まらない北条時政——晩節を汚し続けた男の末路

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第36・37話
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、畠山重忠の乱を描いた先週放送の第36話「武士の鑑」、そしてタイトルも話題となった昨日放送の第37話「オンベレブンビンバ」について、専門家の立場から詳しく解説します。

『鎌倉殿の13人』の第36話では畠山重忠の戦死、第37話では北条時政の謀反が描かれた。北条義時は鎌倉幕府を守るため、ついに父・時政の排除を決断する。歴史学の観点から第36・37話のポイントを解説する。

畠山重忠の死

畠山重忠の排除を企む北条時政は、まず重忠の嫡男の重保を謀殺する。畠山重保は親戚の稲毛重成に招かれて鎌倉に来ていた(『吾妻鏡』元久二年六月二十日条)。だが重成は時政の娘婿であり、時政の指令に従って重保をおびき寄せたのである。

秩父氏略系図〈編集部作成〉

元久2年(1205)6月22日の朝、謀反人を討つべく由比ヶ浜に集まれとの命を受けた重保は3人の家人と共に由比ヶ浜に駆けつけたが、時政の指示を受けた三浦義村の軍勢によって討たれてしまった。

治承・寿永の内乱の初期、畠山重忠は平家方として衣笠合戦で三浦義明(義村の祖父)を討っている(『鎌倉殿の13人』第6話)。重忠が頼朝に降参した際、三浦一族は重忠を殺そうとしたが、頼朝は重忠を許し厚遇した(第8話)。

この時の遺恨を、三浦義村・和田義盛らはまだ忘れていなかった。北条時政は敵討ちに燃える三浦一族を利用して重忠を討とうとしたのである。

さて、鎌倉で謀反が起きたので急ぎ馳せ参じよと稲毛重成から連絡を受けた畠山重忠は、130~140騎を率いて19日に菅谷館(埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷)を発ち、22日に二俣川の付近(現在の神奈川県横浜市旭区)の鶴ヶ峰の麓に布陣した。ここで重忠は嫡男の重保が殺されたこと、幕府の大軍が自身を討伐すべく迫っていることを知った。

本拠地に引き返して態勢を立て直すべきとの意見を退け、「逃げるところを討たれた梶原景時のような末路をとりたくない」と、北条義時率いる幕府の大軍に真っ向から突撃し、華々しい戦死を遂げた(二俣川合戦)。重忠は42歳であったという。

なお、劇中で描かれた北条義時と畠山重忠の決闘は、脚本の三谷幸喜氏の創作である。ただし、敵を馬から落として刀で敵の首を取る近接戦闘は当時「組み打ち」と呼ばれ、実際に合戦で行われていた。

畠山重忠を討った後、鎌倉に帰還した北条義時は、「重忠の弟や親戚のほとんどは他所にいて、重忠に従っていたのは僅か百人余り。やはり重忠が謀反を企てたという話は偽りだった」と時政をなじった。

重忠は冤罪だったという評判が広まり、窮地に陥った時政は、重忠を陥れた罪で重成を殺した(『吾妻鏡』元久二年六月二十三日条)。トカゲの尻尾切りで責任回避を図ったのである。

だが、北条時政のあまりに強引かつ冷酷な手法は、御家人たちの強い反発を呼んだ。重忠討伐の論功行賞は、将軍実朝の実母である政子によって取り仕切られ(『吾妻鏡』元久二年七月八日条)、時政は蚊帳の外に置かれた。

もともと政子・義時姉弟は、継母の牧の方と折り合いが悪かったが、今回の事件を契機に両者は完全に決裂したのである。

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