新型コロナウイルスの感染拡大で、コロナという病気の正体がある程度わかってきた今もなお、中国では「ゼロコロナ対策」が取られている。先日も新型コロナ感染患者が増加した町ごと隔離すべく深夜にバスで移動させる中でバスが横転、死傷者47人を出す大惨事となった。「ゼロコロナという対策事態が現実的ではない」という意見が国内外でも出ている。

しかし「リスクをゼロにしたい」と考えるのは、決して中国だけのことではない。誰にとってもリスクは好ましくないが、「リスクがゼロ」という状態は成立しうるのだろうか。ジャーナリストの佐々木俊尚さんが3回にわたり日本の「ゼロリスク信仰」について分析。その第1回は日本中がパニックになった過去の事例をひもといていく。前編はゼロリスクという言葉が誕生した経緯や2000年前後に大騒ぎとなった狂牛病について振り返る。

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「リスクがゼロ」でないと気がすまない

日本社会に「ゼロリスク信仰」が蔓延して久しい。「ゼロリスク信仰」とは何か。それはリスク(危険性)がゼロでないと気がすまない態度のことである。しかし社会のあらゆる場面に存在するさまざまな危険性はどれも決してゼロにはならないから、そもそもリスクがゼロであるのを求めること自体が不可能である。だから「ゼロリスク」は決して科学的ではない「信仰」のようなものになってしまう。

あらゆる社会問題には、ただひとつの正解はない。「こちらを立てればあちらが立たず」という危ういバランスの上に成り立っていることがらは多い。

たとえばいま進行中のエネルギー危機で考えてみよう。ヨーロッパでは地球温暖化対策のため脱炭素を積極的に進め、石油や石炭などの火力発電を減らしてきた。ドイツでは同時に脱原発も推進し、風力や太陽光などの再生可能エネルギーを増やしてきた。しかしロシアのウクライナ侵攻で、石油や天然ガスの供給がたいへん危うくなった。

石油のパイプラインにより、我々の生活は潤っているのは事実だ。石油の使用によって空気が汚れるリスクがあることも私たちは直面しているが、リスクをゼロにするということは一切使わないということになる Photo by iStock

「脱炭素」「脱原発」「ロシアへの制裁」。この三つは同時には成立しにくいトリレンマである。どれかひとつだけを選ぶことができないのであれば、何らかのバランスをとってグレーゾーンの狭間になることを許容するしかない。実際、ドイツでは脱原発をいったん棚上げし、石炭火力も復活するという政策をとろうとしている。