社会で生きている限り、リスクがゼロということはない。どんな問題でも、リスクとベネフィットのバランスでものを見ていく必要がある。しかし過剰にリスクを0にしないと気がすまない「ゼロリスク信仰」が根強いのはなぜなのか。ジャーナリストの佐々木俊尚さんが分析する短期集中連載1回目では、ゼロリスクとはなにか、そしてゼロリスクという言葉が生じた経緯を具体例と共にお伝えした。
第2回は「ゼロリスク信仰」を生むメディアの構造的問題を見ていく。

 

「安全宣言」で、安全に「お墨つき」?

1999年、テレビ朝日系「ニュースステーション」の報道が引き起こした「所沢ダイオキシン騒動」では、報道のすぐ後に埼玉県が農産物のダイオキシンを緊急調査し、濃度はテレビで報じられていたのよりもずっと低かったと発表している。このときの記者会見で、県庁の農林部長はこうコメントした。

「データを評価してもらうために設置した専門委員会から、安全性について問題はないという評価をいただいた」

これを新聞やテレビは、「県が安全宣言」という見出しで報じた。県はとくだん「安全宣言」という単語は使っていなかったのに、である。そしてこの「安全宣言」に沿って、関係各所から「安心した」というコメントをもらって新聞は紹介している。「安全宣言がされ、安心した。今回の安全宣言で、販売が回復することを期待している」(農協)。「安全宣言で、お茶を飲んでも安全であることが確認された」(地元のお茶の農業団体)。

このような行政当局による「安全宣言」で、安全に「お墨つき」が与えられたという報道スタイルは、いたるところで目にすることができる。2011年の福島第一原発事故のあとにも少なくなかった。たとえば事故の年の5月、神奈川県で茶葉から国の暫定規制値(1kgあたり500ベクレル)を上回るセシウムが検出されたというニュース。これを受けて周囲の県も茶葉の緊急調査をおこなった。

国民を不安に陥れないよう、トップが「名言」することも重要ではある。ただしそれは専門家の正しい知識を踏まえた正しい判断でなければならない Photo by iStock

「安全」は誰が決めるのか

このうち静岡県での調査では、放射性物質は暫定規制値を下回っていた。このときに読売新聞は不思議な記事を書いている。

「静岡市長は16日、市産の新茶を飲んで独自に『安全宣言』を出した。田辺市長は『静岡市産はもちろんのこと、県内産のお茶が安全であることが証明された。新茶をたくさん飲み、いつも以上に知人、友人に新茶を贈って、茶どころを応援してもらいたい』と述べた」(「県産茶 知事の安全宣言要請 JA、放射性物質調査受け」2011年5月17日静岡版)

この「安全宣言」は現実的にはほとんど何の意味もない。市長が自分で飲んで、安全だと感じたと言っているだけである。おそらく記者は茶化して書いているのだと思うが、なぜこういう冗談が出てきて、それが記事になってしまうのか。