いつか死ぬ、だから輝く私達の命

死への恐怖があるから人生を楽しめる
人生が面白いのは、いつか死ぬことを知っているから――。
人間は、生きている限り必ず死に至ります。そして私たちはそれを恐れます。
しかし、人生が面白いのは、いつか死ぬことを知っているからであり、それを意識するからこそ1日1日に意義を与えようとするのです。
『40歳からは自由に生きる 生物学的に人生を考察する』から紹介します。

(※本稿は池田清彦『40歳からは自由に生きる 生物学的に人生を考察する』を一部再編集の上、抜粋しています)

「死」は多細胞生物の必須アイテム

バクテリアは何回、分裂をくりかえしても、原則的には死にません。乾燥や高温などが長期間続いて、死に絶えることはありますが、そのような「事故」で死ぬ以外は、生き続けられる細胞系列は老化することはなく、したがって、バクテリアには老衰による死というものは存在しません。バクテリアが進化して2nの生物になったことで、生物は死を獲得したのです。

先に、アポトーシスについて述べました。アポトーシスとは「プログラムされた細胞死」です。細胞を「殺す」ことで手足の指をはじめ体のさまざまな部分の微妙なる形をつくりだし、脳のシナプスの刈り込みもおこない、また、がんになりそうな細胞やウイルスに感染した細胞を殺すこともします。

アポトーシスは多細胞生物の生存のための必須アイテムであり、アポトーシスという機能がなければ、多細胞生物はただの細胞の塊にすぎません。つまり、アポトーシスという死ぬ能力を獲得することで、多細胞生物は生きられるようになったのであり、人間もまた自分の身に「死」を内包しつつ、日々を生きているわけです。

死と引き換えにこのすばらしいシステムを獲得したのですから、そのうえ、不老不死でいたいなどと考えること自体、図々しすぎます。死にたくないのなら、アメーバか大腸菌か、がん細胞になるしかありません。

もし多細胞生物に死ぬ能力がなかったとしたら、地球上の食物という資源は生きている生物に全部使われているはずで、今の私たちは生まれてくることすらできなかったでしょう。そもそも永遠の命があれば、セックスをして子孫をつくる必要もありません。それに、いつまでたっても死ねないとなれば、それこそ死ぬほど退屈になるに決まっています。

頭ではそれがわかっていてもなお、私たちは死を恐れています。死が怖くてなりません。がんで余命を宣告されて恐ろしさのあまり、自殺を考える人もいるほどです。ぼくも、もちろん死は怖いし、正直にいえば、死にたくはありません。