「若者のカリスマ」と呼ばれたシンガーソングライター尾崎豊さん。天国へ旅立ってから今年で30年の時が経ちます。妻の尾崎繁美さんが、長く封印してきた豊さんへの想いや心に秘めてきた想いを語る連載6回目。

前編は、1986年の5月、所属事務所とレコード会社との契約問題で活動を休止していた豊さんがNYに旅立ってからのお話です。

豊さんとの出会いの瞬間から「何かが起こる」という予感めいたものを感じていたものの、人気絶頂の彼が自分を選ぶとは思っていなかったという繁美さん。実際、NYに旅立った豊さんはビザや仕事の関係で何度も帰国していたのに、次第に連絡は途絶えがちに……。繁美さんは友人たちから、豊さんが他の女性とも会っていたという噂を耳にしたので、「自分はスペシャルな存在ではないんだな」と諦めにも似た気持ちを抱えながらも、連絡が来るのを待ち望んでいたそうです。

これまでの尾崎繁美さんの記事はこちらから
記事一覧

以下より、尾崎繁美さんのお話です。

 

NYから戻るたびに荒れていく姿

出会った頃の豊は明るくてお茶目。とにかく笑い、まるで内側から光を発しているような人でした。いろいろなところへ連れて行ってくれて、一緒にいて心から楽しいと思える人でした。でも、NYから帰るたびに少しずつ彼らしさが失われ、荒んでいくような感じがしました。顔に無数の切り傷や、手には根性焼きのような痛々しい火傷の跡もあったり……。

繁美さんと出会った頃、明るく常に内側から光を放っていた尾崎豊さんの姿。写真提供/尾崎繁美

「ときどき、自分を無性に傷つけたくなることがあるんだ」と自傷的な行為をほのめかしながら、頻繁に「孤独」という言葉を口にしたりして……。NYでは比較的治安のよい「ミッドタウンのサービスアパートやホテル暮らしをする」と言っていたのに、実際はダウンタウンエリアに住んでいたようです。

当時のNYは今と違って、ひとりでは危険といわれる治安が悪い場所も数多くありました。ドラッグの売人やジャンキー、拳銃強盗など、尋常ではないトラブルも多かったらしく、豊ほどのアーティストがどうしてそんな退廃的で荒れた生活を?と不思議に思っていました。

もともとアーティスト特有の、躁と鬱のようなアップダウンはある人でしたが、今まで言わなかったような攻撃的で陰鬱な言葉の数々……。まるで豊自身がNYの街に迷い込んで、飲み込まれてしまったかのようで、胸が痛みました。

事務所やマネージャーはどうしてフォローしないの?とも思いましたが、実は彼にとってもっとも大きなストレスは、それまで所属していたレコード会社から所属事務所が新たにつくるというレコード会社への移籍問題でした。「どうしたらいいと思う? 繁美だったら、どっちにつく?」と私に相談してきたときの思い詰めたような表情は今も忘れられません。私に相談をするくらいなので、信頼できる人が周りにはいないのだな、と思いました。当時、まだ20歳の豊が仕事に関し、すべてに強い不信感を募らせているようにも見えました。