2022.10.04

天安門事件までも擁護していた日本…かつて「蜜月」だった日中関係がここまで冷え切った理由 日中国交正常化50年 

日本に「甘さ」はなかったか

先週木曜日(9月29日)、日中両国は国交正常化50周年を迎えた。当初は友好ムードに溢れていた両国の関係が、いったいなぜ、今ほど冷ややかなものになってしまったのだろうか。時々の中国側の立場を見つめ直しつつ、日本側に外交政策上の甘さがなかったのか。検証してみたい。

まずは50年前の日中国交正常化の流れを振り返ろう。

きっかけになったのは、米政府が日本の頭越しに中国に接近したことだ。1971年7月、当時のニクソン大統領が米中2カ国の国交正常化を話し合うため、翌年訪中すると電撃発表したのである。この直前には、当時の大統領補佐官キッシンジャー氏が人知れず訪中して、水面下交渉にあたったことも明らかになった。

これに驚いたのが、東西冷戦下、日米安保体制のもと、米国と歩調を合わせていたつもりの日本だ。田中角栄氏が翌1972年7月に首相に就くと、巻き返しを目論み、米国より先に中国と国交を結ぶことを目指した。

持ち前の行動力を発揮した田中氏は、この年の9月25日に北京に乗り込み、連日、周恩来首相らと精力的に協議。同29日に、人民大会堂で、日中共同声明に署名することに成功した。この時、早くから日中関係の改善を目論んでいた大平正芳外務大臣らも同行している。

周恩来と会談する田中角栄 photo by gettyimages

ややもたついたものの、国交正常化から6年後の1978年になると、中国では鄧小平氏が権力を掌握、経済の「改革開放」路線を掲げて成長を重視する路線に大きく転換した。背景にあったのは、少なからず餓死者も出たと言われている深刻な経済の停滞だった。

中国に世界第2位の経済大国の座を奪われ、年々、その差が開く一方の昨今では想像することさえ難しいが、当時、「改革開放」で目指すべきモデルだと持ち上げられたのが日本である。

 

当初、モデル候補には、日本と西ドイツ(現ドイツ)が挙げられていた。この2カ国が第2次世界大戦の敗戦から20年足らずで驚異的な復興を遂げていたからである。

そして、日本が選ばれた理由は、中国と同じ東アジア文化圏という共通点があったうえ、当時の日本が世界第2位の経済大国として西ドイツを上回る成功を収めていたことが大きかったとされている。

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら
SPONSORED