2022.10.17
仏教修行は楽しいからこそ人を救う! 現代にもつづく仏教の教え
梶山雄一『般若経』をもとに「出家」と聞くと、どんなイメージが思い浮かぶだろうか?
世俗を捨て、山にこもり、厳しい戒律のもと修行を繰り返すなかで立派なお坊さんとなる……。仏教において出家が重要な意味を持つことは間違いない。
ただ、そうした大変な修行を経なければ、本当にひとは救われないものなのだろうか。
そんな疑問のもと、誰もが平等に救われうるかたちに教えをあらためていったのが、現在の日本でも最もベーシックな仏教といわれる「大乗仏教」だ。
大乗仏教の教えでは、出家をせずふつうの生活を送る「在家」のひとびともまた、十分に救われうるとされる。そこにあるロジックとは、はたしてどのようなものなのだろうか。
大乗仏教の代表的な経典「般若経」を豊富なエピソードとともにわかりやすくかたる名著『般若経 空の世界』。待望の文庫化を果たしたこの本から、大乗仏教の核となる考え方を紹介しよう。
(※本稿は梶山雄一『般若経 空の世界』を一部再編集の上、紹介しています)
世俗を捨て、山にこもり、厳しい戒律のもと修行を繰り返すなかで立派なお坊さんとなる……。仏教において出家が重要な意味を持つことは間違いない。
ただ、そうした大変な修行を経なければ、本当にひとは救われないものなのだろうか。
そんな疑問のもと、誰もが平等に救われうるかたちに教えをあらためていったのが、現在の日本でも最もベーシックな仏教といわれる「大乗仏教」だ。
大乗仏教の教えでは、出家をせずふつうの生活を送る「在家」のひとびともまた、十分に救われうるとされる。そこにあるロジックとは、はたしてどのようなものなのだろうか。
大乗仏教の代表的な経典「般若経」を豊富なエピソードとともにわかりやすくかたる名著『般若経 空の世界』。待望の文庫化を果たしたこの本から、大乗仏教の核となる考え方を紹介しよう。
(※本稿は梶山雄一『般若経 空の世界』を一部再編集の上、紹介しています)
厳しいルールに縛られた出家のひとびと
ブッダの教団はビクシュ(比丘)、ビクシュニー(比丘尼)、ウパーサカ(優婆塞)、ウパーシカー(優婆夷)の四衆から成っていた。
前の二つは出家の男女であり、後の二つは在家の男女である。
出家者は家庭生活と職業、つまり社会的な義務と幸福の一切を棄てて遊行生活に入り、徹底した性的禁欲を守るほかに、二百ヵ条を超える厳しい戒律に従って身を処した。
一方、在家の信者は一般社会のなかにあって家業にいそしみ、家族を扶養し、社会的な義務を果たし、社会的な幸福を享受した。戒律も、殺生、盗み、淫らな行為、虚言、飲酒を慎しむという五戒を中心にしたものであった。
比較的自由な在家のひとびと
不淫の条項は、出家にとっては絶対的な性的禁欲であるが、在家にとっては正当な配偶者以外との性行為を慎しむことにすぎなかった。出家と在家とのあいだのこうした生活の違いは、当然、それぞれの学問や瞑想という修行の程度の相違をもたらした。
在家の信者が出家と同じほどに質的にも量的にも高度の修行をすることはほとんど不可能であったにちがいない。
したがって仏教教団は一定の戒律によって統制され、組織された出家教団を中心に運営された。出家は在家を学問や信仰や生活態度において指導し、在家は出家を経済的に支持し、協力して教団を成長させていった。
しかし例外的ではあったにしても、在家の信者のなかに、出家に劣らぬ信念と知識をもち、そのすぐれた生活態度をブッダに称讃された人々も数多くいた。ここにはほんの一、二の例をあげよう。

在家のなかにも厳しく身を律したひとびとがいた
ハスティグラーマのウグラ(郁伽[いくが])居士──異伝によればヴァイシャーリー市のウグラ──はあるとき、七日間続けた酒宴の終りに妓女たちを連れて遊園にきたが、たまたまき合わせていたブッダの威厳にみちた姿を遠くから見かけると、大いに恥じ、酔いがいっぺんに醒めてしまった。
その場でブッダに敬礼し、戒を受け、教えを聞いて不還[ふげん]──死後、天上にいたり、ふたたびこの世に生まれることなく解脱する聖者となった。
彼は四人の若い夫人をもっていたが、彼女たちにこう告げた。
「自分はもう五戒を受け、性的禁欲の誓いをも立てた。お前たちは、もしそうしたいなら、この家にとどまって善行をしなさい。あるいは、自分の親族の家にいってもよいし、もし結婚したいなら誰としたいかいいなさい」と。
そしてみずから媒酌してそのうちの一人を好きな男と結婚させてやった。
若い夫人を失っても少しも悔いることなく、以後純潔を守り通した。家財をもってブッダの僧団に給食しつづけ、ブッダに教団奉仕の第一人者と呼ばれるにいたった。
神々が夜間彼の家を訪れ、比丘たちそれぞれの学識や戒律や徳行をくわしく彼に話し、暗に、すぐれた比丘だけに布施をするように、と告げた。
しかしウグラは、この人には多く、あの人には少なく与えよう、という差別の心をいだくことなく、平等に布施をしつづけた。
ウグラはうやうやしく比丘に仕え、つつしんでその教えを聞いた。比丘が自分のために法を説くことができないときは、ウグラが比丘のために教えを説いてやった(『増支部経典』五、八集第三居士品二二要約)。
その場でブッダに敬礼し、戒を受け、教えを聞いて不還[ふげん]──死後、天上にいたり、ふたたびこの世に生まれることなく解脱する聖者となった。
彼は四人の若い夫人をもっていたが、彼女たちにこう告げた。
「自分はもう五戒を受け、性的禁欲の誓いをも立てた。お前たちは、もしそうしたいなら、この家にとどまって善行をしなさい。あるいは、自分の親族の家にいってもよいし、もし結婚したいなら誰としたいかいいなさい」と。
そしてみずから媒酌してそのうちの一人を好きな男と結婚させてやった。
若い夫人を失っても少しも悔いることなく、以後純潔を守り通した。家財をもってブッダの僧団に給食しつづけ、ブッダに教団奉仕の第一人者と呼ばれるにいたった。
神々が夜間彼の家を訪れ、比丘たちそれぞれの学識や戒律や徳行をくわしく彼に話し、暗に、すぐれた比丘だけに布施をするように、と告げた。
しかしウグラは、この人には多く、あの人には少なく与えよう、という差別の心をいだくことなく、平等に布施をしつづけた。
ウグラはうやうやしく比丘に仕え、つつしんでその教えを聞いた。比丘が自分のために法を説くことができないときは、ウグラが比丘のために教えを説いてやった(『増支部経典』五、八集第三居士品二二要約)。