2022.10.17

すべては「空」。 仏教の驚きの考え方! 輪廻も世界も幻?!

梶山雄一『般若経』をもとに
人は宗教に何を求めるだろうか?

個人としての救い、世界全体の救い、あるいは……。いずれの場合でも、この世界に対して自暴自棄にならず、しっかりと向き合うためのすべが求められることだろう。

だが、仏教ではすこし考え方が異なる。

というのも、何もかもが幻であり存在していない、つまりは「空」であるという考え方こそが、教えの根本にあるのだ。

何も存在していないとするなら、ひとは自暴自棄になるほかないのではないか!?
そう考えてしまいそうにもなるが、仏教はそこで驚きのロジックを駆使する。万物を救うための世界観を提示するのだ!

待望の文庫化を果たした名著『般若経 空の世界』から、仏教の核にある「空」の哲学を紹介しよう。
(※本稿は梶山雄一『般若経 空の世界』を一部再編集の上、紹介しています)
ブッダの代表的な弟子の一人であるスブーティ。かれは、ブッダに「菩薩大士とは何なのか?」とたずねる。そこには仏教の教えの核と言えるものがあった!

何事にも執着しない存在「菩薩大士」

『八千頌(はっせんじゅ)般若経』(以下『八千頌』)第一章においてスブーティはブッダに菩薩大士というときの菩薩および大士とはどういう意味であるかをブッダに問う。

それに対してブッダは次のような意味のことをのべる。
「菩薩大士はすべてのものを理解するために、執着しないということにおいて、無上にして完全なさとりをさとるのである。さとりを目的とする点で大士は菩薩と呼ばれる。有情の大集団、有情の大群集の上首たることを達成するから菩薩は大士と呼ばれる」と。

スブーティはブッダの答えを理解していう。
「菩薩大士といわれるのは(こういうわけです)。
かのさとりを求める心(菩提心)、全知者性を求める心、汚れのない心、比類のない心、至高なる心であって、すべての声聞や独覚と共通しないもの、このような心にさえ彼は執着せず、こだわらないのです。
なぜかといいますと、その全知者性を求める心は汚れがなく、こだわりがないからです。その汚れがなく、こだわりのない全知者性を求める心にさえ彼は執着せず、こだわりません。そういう意味で菩薩大士という名で呼ばれるのです」。

この『八千頌』の文章においても、無執着が強調され、「サットヴァ」という語は「心」の意味で解釈され、自己のさとりと利他の完成をめざす者が菩薩大士と呼ばれている。

ハリバドラの解釈は『八千頌』の意味するところによく対応していたのである。

現世に執着しない姿勢から「空の哲学」へ

「般若経」が強調する大乗の菩薩すなわち菩薩大士には二つの基本的な性格がある。
一つは「ものの特徴を認識せず、ものに執着しない」という無執着の態度であり、他の一つは「自分でそうしようとすればできるにもかかわらず、完全な涅槃において涅槃したいと思わないで、かえって、この上なく苦しんでいる有情の世界を見て、無上にして完全なさとりをさとろうと欲し、輪廻をおそれない」(『八千頌』第十五章)という不住涅槃の態度である。

この無執着と不住涅槃ということは「知恵」と「巧みな手だて」(方便)といいかえてもよいもので、いずれものちに述べる空の哲学に裏付けられている。
いまはこれを一般的に論じておきたい。

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