ことばや認識から離脱せよ! 仏教がみちびく真の世界とは!?
梶山雄一『般若経』をもとに宗教はそれらを打破し、進むべき道を指し示してくれるものとして、有史以来、受け継がれてきた。
なかでも仏教は、日本において最もポピュラーな宗教のひとつだ。
ところが、仏教の教えとはどのようなものなのかと問われると、なかなかうまくは答えられないのではないだろうか?
ここでは、待望の文庫化を果たす名著『般若経 空の世界』から、仏教における最重要概念である「空」について紹介する。
そこには、ことばや認識といった、人がこの世界で生きるうえで当たり前としているものを、疑い、より真なる世界へと近づこうとする考え方がある。
難解であるがゆえにひとたび理解できれば人を救う、仏教の教えの核となる思想をコンパクトにたどってみよう!
(※本稿は梶山雄一『般若経 空の世界』を一部再編集の上、紹介しています)
不二とは?
なぜマンジュシリーは、不二とはなんらのことばも説かないことだ、といい、なぜヴィマラキールティは黙して語らなかったのであろうか。
それは有為と無為、有漏と無漏、生死と涅槃、世間と出世間、煩悩と菩提、ひいては五蘊・十二処・十八界・五位七十五法というような範疇によって区別された本体とは、実在するものではなくて、ことばの意味の実体化されたにすぎないものであるからである。
過去・現在・未来にわたって恒常であり、それ自身として、他のものに依存することなく自立的に存在する本体とは人間の思惟の世界における概念としてしか存在しない。
現に実在するものは、各瞬間に変化する無常なものであり、他の多くのものを原因とし、他のものに依存してのみ現象する、他律的なものである。
机は机であって、机は机ではない!?
たとえば私の目の前にある机という個物は机という本体をもっていない。なるほど私がその前にすわってその上で原稿を書けば、それは机である。
しかし私がそれに腰かければそれは椅子以外の何であろうか。
私が斧でそれを叩き割ればたちまちそれは薪になり、ストーブに入れれば灰になり、雲散霧消して無に帰する。それは恒常ではない。机は木材と塗料と金具と家具工の技術などを原因として作られたもので、けっして自立的なものではない。
また私の目の前にある机と隣りの部屋の机とはまったく異なった個物であって、範疇や概念のもつ普遍性、「机一般」という性質などはありはしない。

様々な認識が起こるのは、物が空だからだ!
もし机という本体があるならば、本体は普遍的、恒常的であるはずだから、それはつねにすべてのものにとって同一の実体と機能をもつはずである。
しかし現実には、私はその上で書物を読むが、子供はその上に跳ね上がって遊び、猫は寝台としてねそべり、犬は寄ってきて片足をあげる。
そのようにさまざまな認識とさまざまな効用が起こるのは、その机に机の本体がないからである。机は机として空であり、本体は思惟における概念にすぎない。
愛情は凡夫にとっては迷いの絆[きずな]であるけれども、菩薩や仏陀にとっては有情を見捨てない慈悲である。どうしてそこにただ煩悩という本体だけを認めることができようか。