2010.08.13
# 雑誌

加賀乙彦[作家] 自分らしく幸福に死ぬために必要なこと

軽井沢の自然に抱かれて生と死を想う
セオリー
書斎の執筆机は大きな窓に面している。窓の向こうに広がる庭では、一日ごとに草木や花々が変化していく

 小鳥の鳴き方も然り、星の輝きも然り。同じようでふたつと同じものはない。はかないといえば、とてもはかないけれど、でも、同時にはかないもの同士が何かを共有できることのありがたさも感じずにはいられません。

 ご存じのように、あらゆる植物も、鳥も、細菌も、みんな同じ二重構造のDNAを持っています。生命のもとはたったひとつで、それが進化してこれだけいろいろな動物や植物に枝わかれしました。言いかえれば、僕らと彼らは他人じゃない。人間も自然の一部なのです。

 風で木々の枝や葉が擦れ合って音楽を奏でる。目を凝らすと、あちらこちらに多種多様な虫がいて、小鳥たちが囀り、花が咲いている。見上げれば梢の隙間から空が見え、雲が流れていく。それらが一体となって、複雑でありながら統一された美をつくりあげている。僕はここに人間を超えた、大いなる力のようなものを感じずにはいられません。

人間を超えた大いなる力を自然に学ぶ

 人間を超えた大いなる力――58歳で洗礼を受けてキリスト教者となった僕にとってそれは神ですが、自然の摂理と呼ぶ人もいる。なんと呼ぼうが、人間には決してつくることのできない美を生み出した何ものかを前に、誰しも謙虚な気持ちになるものです。

 ある友人は遺言の中に、「神が生命を造ったなどというおとぎ話を、僕は信ずることはできない。死んだ後は天国も地獄もない」と書いた。そういう感覚は、僕から見るととても不幸です。

 天国があるかないかというのは、人間には絶対にわからないもの。あると思えば幸福、ないと思うと不幸になる。だったら、あると思うほうがいいじゃないかと僕は思います。

 どちらにしても生きている間は証明できないのだし。パスカルは「神は実在するか、しないか。実在するほうに賭けたとしても、失うものは何もない」といいましたが、そのとおり、神の実在を信じて生きることの意味が増すなら、それでいいのじゃないでしょうか。

 意識や魂と呼ばれるものが死後どうなるかということについては、宗教によって考え方が異なります。同じキリスト教や仏教のなかでも宗派によって、また時代によって微妙な違いがあります。

あると思えば幸福、ないと思えば不幸。ならば天国を信じるほうがいい

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