1年以内に半数弱が戦死、生きて終戦を迎えたのは2割 真珠湾攻撃隊員の運命

過酷な戦場を生きた隊員たち その愛の物語
今から80年近く前、太平洋戦争の開始を告げた「真珠湾攻撃」というできごとがあったことは、多くの人が知っているだろう。でも、そこには900人に及ぶ搭乗員が参加していたこと、そして彼らひとりひとりがたどった運命については、あまり知られていない。1941年12月の開戦から1年以内に半数弱が命を落とし、生きて終戦を迎えたのはわずか2割だったという隊員たち、その愛と運命に迫る『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の80年』から、一部を再編集・抜粋して紹介する。

引き揚げられた飛行機

普段、あまり訪れる人がないというその展望台は、見物に来た多くの島民で賑わっていた。鹿児島県の種子島の北端にある、喜志鹿崎灯台。眼前の海には大きな作業船が碇泊し、ダイバーを乗せた小さな船が慌ただしく行き交っている。

2021年6月、かつてここに不時着した日本海軍の飛行機が、深さ20メートルの海の底から引き揚げられようとしていた。太平洋戦争の末期、沖縄の周辺にいるアメリカ艦隊を攻撃するため九州の基地を飛び立った3人乗りの攻撃機が、アメリカの戦闘機に迎撃され、ここに不時着したのだという。

作業は現場周辺の激しい潮流のため難航し、僕とカメラマンは港近くの宿に滞在しながらその時を待っていたが、いよいよ揚がるらしいと聞き、テレビ局や新聞社の記者たちが共同でチャーターした漁船に乗せてもらい、現場の海域にたどりついた。ダイバーの手により海中でベルトを巻きつけられた機体が、作業船の巨大クレーンによって海の中から徐々に姿を現していく。だがそれは、想像以上に朽ちていた。機体の表面ははげ、骨組みがむき出しになっている。それを見て、この飛行機が役目を終え海の底に姿を消してからいかに長い歳月が経っていたのか、改めて感じずにはいられなかった。

2021年6月 種子島喜志鹿崎沖で引き揚げられる九七式艦上攻撃機

その飛行機は「九七式艦上攻撃機(九七艦攻)」という。胴体の下に爆弾や魚雷を吊るし、敵の軍艦や陸上の目標を攻撃するのが主な任務だった。乗員は3人で、前席には「操縦員」が、中央の席にはナビゲーションをしたり爆弾や魚雷の投下を行う「偵察員」が、後席には電信を打ったり機銃で敵機と戦う「電信員」が乗っていた。

ちなみに「九七式」というのは、初代天皇と伝承される神武天皇が即位したと伝わる年を元年とした場合の紀元2597年(西暦にすると1937年)に海軍が制式採用した軍用機であることを意味している。太平洋戦争の末期にはすでに時代遅れとなっていたこの飛行機も、当初は高速性と航続距離、操縦性能の高さが評価され、1500機以上が製造された。

この九七艦攻が一躍その名を高めたのが、1941年12月8日、日本海軍がハワイに碇泊するアメリカの太平洋艦隊に対して行った「真珠湾攻撃」だった。

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