2022.11.24
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着物姿で「アメリカ国歌」を歌った、伝説の歌手「三浦環」…米国中にセンセーションを巻き起こした「その公演秘話」

代表作《歌劇 マダム・バタフライ》を国内外で2000回公演し、大戦下の欧米で数々の舞台に立った、日本のオペラ歌手三浦環。環は夫、三浦政太郎と共に第一次世界大戦の戦火が迫るドイツ・ベルリンからロンドンに逃げ、アメリカに渡り、歓迎され、ホワイトハウスでも歌唱しました。

前編記事『世界が「奇跡の歌声」に絶賛…!オペラ歌手「三浦環」アメリカ公演成功の舞台裏と「過酷なエピソード」』>では、環と夫の政太郎が、ロンドンからアメリカに渡航した直後に、ボストン・グランド・オペラ・カンパニー総支配人、マックス・ラビノフ氏によって、夫と離れ単身でシカゴに行くまでをお伝えしました。

環をアメリカで売り出すにあたり、マネージャーとなるラノビフ氏にはこんな考えがありました。

※本稿は、大石みちこ著『奇跡のプリマ・ドンナ オペラ歌手・三浦環の「声」を求めて』より、一部を抜粋・編集したものです。

本音を綴った母への手紙

無邪気で世間知らずの環を一流のプリマ・ドンナへと育てるために、ラビノフは数々の策を練っていた。常に着物を着ていること、夫と一緒に歩かないこと、アメリカでのデビューはニューヨークではなくシカゴで行い評判を広めること。そして、他の演目を組み合わせるというプログラムの工夫である。

環が出演する《歌劇 マダム・バタフライ》の終演後、バレリーナのアンナ・パヴロヴァが<瀕死の白鳥>を踊った。

アンナ・パヴロヴァアンナ・パヴロヴァ

<瀕死の白鳥>は、カミーユ・サン・サーンス作曲<動物の謝肉祭>の組曲の一曲に、舞踊家のミハイル・フォーキンが振付けした作品である。上演時間は五分にも満たない小品であるが、パヴロヴァは明治三十八年(1905)の初演以来、世界各地で踊り、観る者の魂を揺さぶる名演は、話題となっていた。

パヴロヴァは環の歌を聞きながらみずからの公演前のウォーミングアップをしていた。環が歌い終えて舞台袖そでへ行くと、パヴロヴァが毎回同じ場所で真剣に稽古している姿を目にした。

既に名声を得て、世界随一のバレリーナと言われる人が繰り返し休むことなく、足を上げ下げし、練習する姿に環は感じ入った。

ロンドンからアメリカへ渡った環は母・登波へ近況を知らせ、登波は親戚へ手紙を送った。

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