江戸時代の富士山噴火
いまから300年ほど前の1707年に、その前から数えて約200年ぶりの大爆発を起こした。宝永噴火と呼ばれるものである。この噴火では、火山灰と軽石が大量に噴出し、東へ飛んでいった。大量に出た細かい火山灰は、偏西風に乗って横浜や江戸方面へ降り積もった。
当時の武家に残された多数の古文書の調査によると、火山灰は横浜で10センチメートル、江戸では5センチメートルの厚さになったと推定されている。

火山灰は10日以上も降りつづき、昼間でもうす暗くなった。当時、江戸にいた儒学者で政治家の新井白石は、こう書き記している。
家を出るとき、雪が降っているように見えるので、よく見ると、白い灰が降っているのである。西南のほうを見ると、黒雲がわき起こり、雷の光がしきりにした。西ノ丸にたどりつくと、白い灰が地をおおい、草木もまたみな白くなった。(中略)やがて御前に参上すると、空がはなはだしく暗いので、あかりをつけて進講をした。
「折りたく柴の記」桑原武夫現代語訳、日本の名著15『新井白石』中央公論社
いったん空中に浮かんだ火山灰は、なかなか落ちてこない。新井白石は、火山灰は3週間も舞いあがった、と書き残している。地面に落ちても、ふたたび風に乗って舞いあがってしまうからだ。