王座に就いたオットー1世 燃え上がるイタリアへの野心

イタリア遠征の真意とは?
11月新刊『ドイツ誕生』では、オットー1世の生涯に焦点を当て、ドイツが大国に成長するまでを辿る。本書のはじめでは、五賢帝時代までさかのぼり、東フランク王国の歴史を振り返ってきた。今回は、4章から一部抜粋して第一次イタリア遠征について紹介する。

混迷のイタリア

カール大帝のフランク大帝国が三分割された部分王国のひとつである中部フランク王国はさらにイタリア、ブルグント、ロートリンゲンに分割され、そのうちイタリアの領域はロドヴィーコ二世の死によりカロリング朝が途絶え、中世イタリア王国となった。王国の支配領域は七四七年、カール大帝により征服され、大帝みずからが王となったランゴバルド王国の北イタリア部分である。

王国の南には教皇領がある。ローマ、ラヴェンナ、中部イタリアである。しかし教皇の支配権は及ばなくなっていた。

教皇領の南は南イタリアである。諸侯は九世紀ごろまではカロリング朝に服していたが、カプア、ヴェネベント、サレルノは自立し割拠状態となる。さらに厄介なことだが、東ローマのビザンツ帝国はいぜんとしてこの地域への宗主権を主張し、プーリアとカラブリアを直接支配していた。ところがこのように麻のごとく乱れた南イタリア全体はイスラームの脅威にさらされ、シチリアは占領されていた。この状況下で後にオットーが宗主権を主張し、ビザンツと対立することになる。南イタリアは全くアナーキーな状態に陥っていたのだ。

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さて中世イタリア王国ではイタリア出身のフリウーリ伯ベレンガーリオ一世がイタリア王となった。するとすかさずスポレート公グィードが対立王に立った。両陣営の対立は、グイードの死後は息子のランベルトに引き継がれたが彼もまた戦い半ばに倒れた。反ベレンガーリオのイタリア貴族たちはアルプスの北のプロヴァンス王ルイを対立王に担ぎ出した。しかし彼はベレンガーリオの手中に落ち、眼球を摘出されるという陰惨な刑を受けることになる。後に盲目王と呼ばれるに至るルイはたまらずプロヴァンスに逃亡するが、ここでは王の不在中にアルル伯ユーグが実権を握り事実上の王となっていた。

一方、イタリアではベレンガーリオの専横に反感が高まり、イタリア貴族は対立王にまたぞろアルプスの北のブルグント王ルドルフを引っ張り出してきた。ちなみにこの時、ルドルフは後にオットーの父ハインリヒに献呈することになった例の「聖槍」(本書の第二章で紹介)を手に入れたのである。

さて、そうこうするうちにベレンガーリオは自身が招き入れたハンガリー傭兵の残虐行為に怒った家臣の一人にヴェローナでのミサの最中に背中を刺され非業の死を遂げた。九二四年のことである。享年七十四歳で当時としてはかなりの長寿で、四人の対立王と対峙したことになる。

イタリアは久々に一人国王となった。しかしイタリア貴族はよくよく安定を嫌うのか、ルドルフの支配に異を唱えた。

ルドルフは形勢不利を悟り、イタリア撤退を決めた。そこで事実上のプロヴァンス王となっていたアルル伯ユーグが乗り込んできてイタリア王ウーゴとなる。

こうしてさしものイタリアも安定の道を歩むかに見えた。しかしそうはならないところがイタリアのイタリアたるゆえんであった。