2022.11.30

5月の光る波と「ウイルス」の贈り物

30年後のナノワールド物語

増え続けている夜光虫

「だけど変よね」洋子さんは水槽を指差した。「あなたの言うことが本当なら、この子たちは、どうして元気なのかしら」

「そこなんです。だから興味があって、ここにお邪魔しました。この水槽にいる夜光虫は、いつごろ採取したものですか」

「うーん、飼い始めたのは3年くらい前だけど、それ以来、意識して補充はしてない。だけど、この水は人工海水とかじゃなくて、あの入り江の水をくんできて、時々、一部を入れ替えているの。その時に、その水にいた夜光虫も入ってるかもしれない」

「その可能性は高いですね。だとすると、やっぱり人工ウイルスに感染していても、おかしくはないはず。何か餌はあげてますか」

洋子さんは首を振った。

「最初は買ってきたクロレラとか珪藻をあげたりしてたんだけど、今は何も……海水を入れ替えていれば、その中にいるプランクトンとかを適当に食べているみたい。それでも間引きが必要なくらい増えるの」

「そうなんですか。エアレーションが関係しているとも、思えないけどなあ」

「これも、ずっとやってるわけじゃないのよ」洋子さんはエアーポンプのスイッチを切った。「あんまり光らせると、疲れちゃうんじゃないかと思って」

「そうですね」私はくすりと笑った。「夜光虫だって疲れるかも」

水槽は少しずつ暗くなっていく。洋子さんはまた上から指を入れて、すっと水面をひとなでした。すると直線状の青い軌跡が描かれる。それを見て、ふと頭にひらめくものがあった。

「まさか……」と私はつぶやく。

「どうしたの」

「あの、ちょっと変なお願いしてもいいですか」

「えっ……?」

返事を待たずに、私は部屋の隅に置いてあったバッグからサンプリング用の容器と、携帯型簡易分析機を引っ張りだした。そして小さな試験管に似た容器を2つ、洋子さんに差しだす。

「こっちに、その水槽の夜光虫を、こっちにあなたの……唾を入れてほしいんです」

洋子さんは目を丸くして、しばらく私を見つめた。でも結局、黙ったまま容器を受け取ると、言われた通り一方に夜光虫を、他方に唾を入れてくれた。

「これでいい?」

「ありがとうございます!」

私は受け取った容器を分析機にセットし、携帯端末をつなげて操作した。待つこと約5分――端末の画面に結果が表示されていく。それを見て、私は頭を振った。

「信じられない……」

「どうだったの」

【写真】容器に水槽の水と洋子さんの唾液を入れたphoto by gettyimages

ウイルスを殺すウイルス

「あの、人工ヴィロファージって、ご存知ですか」

「ええと、ワクチンのこと?」

「はい、最近は『ワクチン』とだけ呼ばれることが多いですけど、もともとは『人工ヴィロファージ・ワクチンシステム』という長ったらしい名前でした」

「やっぱり人工ウイルスみたいなやつだっけ」

「そうなんです。天然にはバクテリオファージっていうウイルスがいます。これは名前の通り、細菌に感染するウイルスです。そしてヴィロファージっていうのは、ウイルスに感染するウイルスです。やっぱり天然にいます。これを参考にしてつくられたのが、人工ヴィロファージです」

「ウイルスを殺すウイルスね」

「ええ、現在、普及していて、私やあなたの体にも常在しているワクチンは、3種類の人工ヴィロファージがセットになってます。お団子みたいに3つがつながって、いつも体内を巡っています。先頭のファージは、特定の化学物質に反応するセンサーの役目をしています。真ん中のファージは、センサーからの情報をもとに病原性ウイルスや、それに感染した細胞などがないかを判断します。そして最後尾のファージには、化学反応の力で推進する装置がついています」

自分の拳をファージに見立てて並べながら説明した。

「いったん病原性ウイルスを見つけると、3つのファージは分解して、それぞれウイルスに感染します。その宿主ウイルスは、そのまま細胞の中に入って増えようとするんですが、ファージに乗っ取られてますから、うまくいきません。むしろファージのほうが増えて、ウイルスは破壊されてしまいます。もちろん増えたファージは細胞を傷つけることなく外に出ていって、さらに病原性ウイルスを退治していくというわけです」

「おかげで、ほとんどの感染症は、なくなったわね。昔はインフルエンザだの、コロナだの、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)だのって、大変だったみたいだけど」

「そうですね。今は風邪をひく人もいなくなった。そういうことがなければ、きっと人工ウイルス技術は、こんなに発展しなかったでしょう。とくに自己増殖する人工ウイルスは、危険だとか、悪用されるかもしれない、という理由で、つくられなかったと思います。でも人工ヴィロファージができたおかげで、利益がリスクを上まわると判断された。実際、人類はペストあたりから始まって、長年、苦しめられてきたパンデミックの恐怖から解放されたんです。今のところは、ですけど」

「それで、あたしの唾と夜光虫から、何がわかったの」

「簡易分析なので再度、確認は必要ですけど、あなたの人工ヴィロファージが、夜光虫の中にもいるみたいなんです。同じものだということは、DNAの配列にしこまれた製造番号でわかります」

「私から出ていって、夜光虫に感染しているってこと?」

「感染ではなく、ただ中にいるだけだと思います。おそらく夜光虫が人工ウイルスに感染したら、人工ヴィロファージがそのウイルスに感染して破壊するんでしょう。これは実験してみないとわかりませんが、そうだとすれば、水槽の夜光虫が健康な理由を説明できます」

「そんなこと、ありうるのかしら」

「普通に考えたら、ありえません。人工ウイルスに人工ヴィロファージが感染するなんて……しかも原生生物用のウイルスに、人間用のヴィロファージが」

【イラスト(CG)】ヴィロファージillustration of Virophage by gettyimages

私は頭を振った。

「なんだか、めまいがしてきました。でも天然のウイルスが種を越えて感染することは、しばしばあります。まれですけど、植物ウイルスの動物への感染が疑われる例さえあるんです。人工ウイルスや人工ヴィロファージが、実際に本物のウイルスやヴィロファージと同等なものだとしたら、私たちが気づいていない何らかのメカニズムが働いて、似たことが起きないとは言えません」

「やっぱり、自然は複雑なのね」洋子さんは小刻みにうなずいた。「でも私のワクチンが、この子たちにも効いているんだとしたら、なんだか不思議」

「不思議です。他の人のワクチンでも試してみて、もし効かなかったら、あなたのワクチンは変異を起こしている可能性が高い。それが偶然でないとしたら、何なんでしょう」

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