2022.11.29

真珠湾攻撃のために「とんでもなく高度な訓練」が行われていたのをご存知ですか?

太平洋戦争の戦端を開くことになった真珠湾攻撃。

じつは、その攻撃は難易度が高く、高度で困難な訓練を要するものだった。

実際に攻撃に参加した、北原收三さんが残した日記から、その実態を浮かび上がらせる。

*本記事は、大島隆之『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

真珠湾攻撃隊の内実

收三さんの日記を読んでいて興味深いのは、「日本海軍の精鋭を集めた」と語られることの多い真珠湾攻撃隊の内実が、もっと複雑だったということだ。もちろん、訓練に訓練を重ね、中国の戦場で実戦を経験した搭乗員が多くを占めていたが、その一方で、練成途上の若年搭乗員も大勢いた。

真珠湾攻撃に参加した隊員たちは、その出身によって大きく四つに分けることができた。エリート士官を養成する「海軍兵学校(海兵)」出身の者、少年飛行兵「予科練」の出身の者(昭和7年に始まった制度で、高等小学校卒業であれば応募できたが、昭和12年に旧制中学3年修了の者を対象とする予科練が新たに作られ、前者が「乙種飛行予科練習生〈乙飛〉」、後者が「甲種飛行予科練習生〈甲飛〉」となった)、そして、志願や徴兵で海軍に入った者のなかから選抜した「操縦練習生〈操練〉」や「偵察練習生〈偵練〉」出身の者である。

そのなかで收三さんよりも後に飛行訓練を始めたのは、海兵、甲飛、乙飛、操練、偵練合わせてわかっているだけで200人以上にのぼる。これは真珠湾攻撃に参加した全搭乗員の四分の一近い数となる。