2022.12.03

歴戦の零戦隊指揮官が遺した「真珠湾攻撃の機密書類」に書かれていた「中身」

奇跡的に残された書類の数々
神立 尚紀 プロフィール

X日とは

ひと通り作戦計画の書類が続いた後には、「赤城」の〈X-1、X日 飛行作業予定表〉が綴じられている。X日とは攻撃決行の日、すなわち12月8日のことである。日本軍はすべて日本時間で行動するから、飛行科、整備科の「総員起こし」は7日の20時30分。21時、飛行機の準備を始め、零戦、九九艦爆、九七艦攻の順に試運転を行ったのち、8日0時45分、第一次発進部隊の搭乗員が整列、艦長の訓示や指揮官からの諸注意を聞く。1時10分、エンジン発動、1時30分、第一次発艦。同時に第三次用の魚雷12本を運搬車に載せておく。そして第二次発進部隊の準備に入り、1時40分、第二次の搭乗員整列、準備ができ次第発艦する。

X日(12月8日)前日から当日までの機動部隊スケジュール。第三次攻撃準備にも言及されている
 

そして計画では5時30分頃、第一次が帰艦すると即座に第三次発進部隊の準備に入る。〈全飛行機ハfo(九七艦攻)雷(魚雷)、fb(九九艦爆)爆(爆弾)搭載シオクコト〉と記されているが、じっさいには機動部隊指揮官・南雲中将は第三次の出撃を断念し、反転している。この南雲中将の判断について、戦果の拡大を目指すのが正しいか、艦隊を無傷で帰すのが正しかったか、戦後も長く議論の的になった。筆者が会った10数名の真珠湾作戦参加者は、進藤も含めてほとんどが「第三次は出すべきだった」と語っている。

ただ、防衛庁防衛研修所戦史室の公刊戦史『戦史叢書』によると、真珠湾攻撃のさい、零戦に搭載する20ミリ機銃弾は1機あたり150発しか用意できなかったという。零戦二一型の二挺の20ミリ機銃の弾倉は各60発入りだが、弾丸詰まりを防ぐため弾倉に装填するのは55発ずつである。一度の出撃で1機110発を消費するから、第三次発進部隊には零戦7機程度の分しか20ミリ機銃弾は残っていなかった。事実、攻撃終了後の書類には、上空哨戒の零戦は7.7ミリ機銃弾のみを搭載するという記述がある。第三次を出すのは、零戦の機銃弾の残弾だけで言えばやや無理があったと言えるかもしれない。

第一次、第二次で日本側の損失は零戦9機、九九艦爆15機、九七艦攻5機の計29機(戦死55名)で、被弾して修理の必要な機体は100機を超えていた。

書類綴りにはさらに、11月24日の艦長訓示や、出航後、無線封止のため旗艦「赤城」から発光信号で機動部隊各艦に伝えられた諸注意が並ぶ。12月3日には、内地の連合艦隊司令長官・山本五十六大将から入電した昭和天皇の勅語、そして山本長官の訓示が書類として配られた。

〈聯合艦隊司令長官訓示

 皇國ノ興廃繫リテ此ノ征戦ニ在リ 粉骨砕身各員其ノ任ヲ完ウセヨ〉

12月3日に入電した連合艦隊司令長官山本五十六大将の訓示。日本海海戦の東郷平八郎司令長官の訓示に酷似している

進藤大尉や空母「加賀」戦闘機分隊長だった志賀淑雄大尉は、この訓示を見て「思わず苦笑した」と筆者に語っている。というのは、日露戦争の日本海海戦(1905年)で、日本海軍がロシア・バルチック艦隊を破った日本海海戦のときの東郷平八郎・連合艦隊司令長官の、

「皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ」

にあまりにも酷似していてお座なりな印象を与えたからだ。

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