2022.12.16

「真珠湾を生き延び、特攻で戦死した」飛行機乗り…彼が「壮絶な戦場」で目にしていたもの

太平洋戦争の戦端を開くことになった真珠湾攻撃。

この攻撃に参加した900人近い隊員のなかには、その後、幾多の激戦を生きのびながらも、1944年に始まる「特攻」で命を落とした人も少なくない。

そのひとり、原田嘉太男(かたお)さんは、その壮絶な経験のなかで何を感じていたのか。

*本記事は、大島隆之『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

来るかわからない未来

爆弾を装着し敵艦に突入する最初の真珠湾攻撃隊員となったのが、1945年2月21日に戦死した原田嘉太男飛曹長だった。

鳥取県米子の農家に長男として生まれた嘉太男さんは、空母「赤城」の艦上爆撃隊(艦爆隊)の一員として真珠湾攻撃に参加した。この時嘉太男さんは22歳。嘉太男さんが真珠湾の直前に母のつる子さんに送った手紙には、適齢期を迎えた息子のためにあれやこれやと世話をしようとする母に「一生の伴侶として良き人自分の眼で選びますから安心して下さい」「来年頃はと思って居ます」と書き送っている。

だが真珠湾後、嘉太男さんが結婚に向けて動いた形跡はない。それは、艦爆隊員が真珠湾で直面した過酷な運命と無関係ではないかもしれない。地上すれすれまで急降下して爆弾を投下する艦爆隊は、奇襲攻撃だった真珠湾ですら、15機が撃墜。赤城の戦闘行動調書を見てみると、原田さんの機体にも多くの銃弾が命中していたことが記されている。