太平洋戦争で壮絶な死を遂げ「軍神」と称えられた指揮官…その遺族がつぶやいた「意外な言葉」

太平洋戦争からおよそ80年。当時の記憶をとどめる人は少なくなった。

そうしたなかで、戦争の端緒となった真珠湾攻撃をはじめ、3年半にわたる激しい戦いの最前線に立たされ続けた搭乗員たちにまつわる証言もまた、極めて貴重なものとなりつつある。

彼らは、そしてその遺族たちはいま、何を思うのか。

長年にわたって取材を続け、真珠湾攻撃から80年の節目となった昨年、ドキュメンタリー番組『真珠湾80年 生きて 愛して、そして』を制作、さらに『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』を著したNHKエンタープライズディレクターの大島隆之氏が、貴重なレポートをお届けする。

「戦争の記憶」をたどって

僕たちが暮らすこの日本という国には、「深遠な記憶」が、人知れず、秘かに息づいている。全国を巡るなかで、折に触れ、そんなことを考えるようになった。

今からおよそ80年前にこの国で大量に生まれた「戦争の記憶」についての話だ。

2022年3月、僕は、ある遺族に会うために大分にやってきた。目指すは、温泉街として有名な別府。さかのぼること80年前、1942年6月5日に行われた「ミッドウェー海戦」で命を落とした戦死者の生家がそこにあった。

別府の風景

太平洋戦争が始まっておよそ半年後に行われたこの海戦で、日本は四隻の空母を失い、これらの軍艦に乗り込んでいた3000人あまりが戦死している。今では思い出されることも少なくなったこの戦いで命を落とした彼らの記憶は、遺族の中でどのように残されているのか、それを知るための旅だった。

その戦死者の名前は、海軍大尉だった友永丈市ともながじょういちという。戦死した3000人の中では比較的、名前を知られているひとりだ。アメリカ軍機の爆撃を受けて日本の空母が次々と炎上していく中、アメリカ艦隊の攻撃に向かい、多くの犠牲を払いながらも空母一隻を撃沈した「友永雷撃隊」の指揮官だ。その悲劇的な死により、戦時中は「軍神」として大いに称えられた。