イタリア人が「ドイツ人」のことを馬鹿にして呼んだ「侮蔑の言葉」

約1000年前から続く両者の対立
​神聖ローマ帝国の初代皇帝について、世界史の授業などで耳にしたことがあるのではないか。そう、オットー1世である。
11月新刊『ドイツ誕生』では、ドイツをつくった男として知られるオットーの激動の人生から、ドイツ国家の成立までを紹介している。
今回は、オットーが行った第3次イタリア遠征について、本書の第10章を一部抜粋してお届けしよう。

ポー平原の野戦

九六五年一月、オットーがイタリアを引き上げてからたったの数週間足らずでイタリアはまたもや不穏な情勢になってきた。

まず、三月一日、教皇レオ八世が亡くなった。ローマ市民は次の教皇にハンブルクに流されているベネディクト五世の復位を願った。もちろんオットーはこれを拒否する。教皇選出が遅れる。

この混乱を利してパヴィア伯ベルンハルトらの貴族が蜂起した。彼らはコルシカにいるアーダルベルトをイタリア王に担ぎ出した。アーダルベルトの弟グィードもこれに呼応して戦列に加わった。

九六二年にオットーが皇帝に即位して以来、イタリア王国の宰相ともいうべき尚書長官を拝命していたモデナ司教ウィードをはじめ多くの司教たちも反乱に加わった。反乱は思いのほかすそ野が広がっている。

オットーは直ちにシュヴアーベン大公ブルヒャルトに鎮圧を命じた。オットーは反乱軍が例によってまとまりがない烏合の衆であることを見抜いていた。

こうしてブルヒャルトは六月末、ポー平原での野戦で反乱軍をいとも簡単に打ち破った。その際、アーダルベルトの弟グィードが戦死する。

アーダルベルト自身はまたもや逃げ切ることができた。それだけイタリアにはアーダルベルト派、というよりかアルプスの北のゲルマン人オットーのイタリア支配を嫌う者があちこちに点在していたということであろう。これは、その後の難渋を極めるオットーのイタリア政策を予見しているようでもある。