イタリア人が「ドイツ人」のことを馬鹿にして呼んだ「侮蔑の言葉」

約1000年前から続く両者の対立

オットーを支えた烈女アーデルハイト

七月、ローマ人が復位を願っていたベネディクト五世が死去する。オットーはシュパイアー司教オトガー、クレモナ司教リウトプランドをローマに派遣してレオ八世の後任人事の決着を図ることにする。

結局、十月一日、ヨハネス十三世が新教皇に選出された。

新教皇ヨハネス十三世はローマ貴族のクレシェティウス家の出身である。同家はヨハネス十二世のトゥスクルム家とは長年敵対関係にあった。つまり今回の教皇選出もいつものようにローマ貴族の派閥争いが絡んでいたというわけである。

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反ヨハネス十三世派は彼をオットーのまったくの傀儡とみなして激しい敵意を抱いた。おまけに新教皇は生来、傲慢な質であったらしく、敵には言うに及ばず、味方にもすこぶる評判が悪かった。

そんなわけでヨハネス十三世は即位後わずか十週間の十二月に反教皇派に拘束され、且つカンパニアに追放された。

ヨハネス十三世にとって頼みの綱はオットーだけとなる。翌九六六年、ヨハネスは逃亡先のカンパニアからオットーに助けを求める。

一方、オットーにしても自分が選んだ教皇がこうもあっさりと追放されるとなると皇帝としてのメンツが丸つぶれである。これは看過できない事態である。

オットーはイタリアでの自分の権威を回復し、なおかつ未だにイタリアで少なからぬ影響力を保持しているアーダルベルト一派を最終的に排除するチャンスでもあると、三度目のイタリア遠征を決意した。

九六六年八月十五日、オットーはヴォルムスで宮廷会議を招集し、第三次イタリア遠征を告げる。五年前、ここヴォルムスで共同王となった息子のオットー二世を自分の留守中の名代に指名し、弟ヴィルヘルムを後見人とした。相変わらず不穏なスラブ地域に関しては以前同様にヘルマン・ビルングに厳重な監視を命じた。

こうして九月、オットー軍はヴォルムスからアールガウ、クール、ベルゲルを通ってイタリアへ向かう。

むろん皇妃アーデルハイトも同行する。

ヨーロッパの王室において宮内長官という役職はもともと王妃付きのそれであった。なぜなら王妃は王家の財産の管理者であったからである。

つまり王妃は夫王にとって王国統治の重要なパートナーであったのである。特に初代、二代、三代といった王朝草創期にはこの傾向が強かった。それゆえ草創期の王妃には女傑が多い。ついでに言えばこのことは王家の娘たちにも言えることだ。彼女たちは王朝を切り開いていく祖父、父、兄、弟たちの放つ猛々しいエネルギーを浴びながら育っていった。

そんな彼女たちにとって他家に嫁ぐということは実家の利益を代表する駐箚大使として相手国に赴任するようなものであった。 

早々間もないブルグント王家に生まれ、最初はイタリア王に嫁ぎ、寡婦となって間もなくオットーに嫁ぎ、母となり皇妃となったアーデルハイトは、一〇〇年、二〇〇年と続いた王家の人情の底冷えの中で育った貧血症気味の嫋嫋たる近世のおひいさまとは真逆であった。

彼女は出産期を除けば常にオットーと行動を共にした。イタリア遠征はオットーにとって最重要国事行為である。これにつきそうのは王妃の務めであった。それどころか彼女は今次のイタリア遠征に際して夫オットーに息子のオットー二世の共同皇帝戴冠を強く迫ったと言われている。まさしく烈女であった。