イタリア人が「ドイツ人」のことを馬鹿にして呼んだ「侮蔑の言葉」

約1000年前から続く両者の対立

南イタリアへ

九六六年十一月、ヨハネス十三世は逃亡先からローマに帰還し壮麗な入城式を行った。それはオットーの襲来を聞いたローマ人が手のひらを返したようにヨハネス十三世を盛大にローマにお出迎えしたからである。

しかし遅れて十二月のクリスマス直前にローマに入城したオットーはこんなことでは騙されない。彼はローマに到着するや否や、教皇を追放した十二人の首謀者を捕らえ、絞首台に送った。他のものはアルプスの北に流罪となった。ただしローマ市総督ペトゥルスだけは取り逃がした。

ところがほどなくその総督も捕まる。総督ペトゥルスは教皇の命により髭を剃られ、哲人皇帝マルクス・アウレリウスの騎馬像に髪の毛で吊るされた後、裸にされロバにさかさまに乗せられた。そのため彼はロバが町を練り歩いているとき、落ちないように必死になってロバの尻尾をつかまなければならなかった。その間、鞭で散々に打たれた。そして長い拘留の後に流刑に遭った。

つまりローマ市総督はこれ以上ないという恥辱の刑を受けたのである。

他にも亡くなった二人の反乱者の墓が暴かれ、遺体は四方八方にばらまかれたりしている。

こうした峻烈な処置を断行した後、オットーは九六七年二月、南イタリアに向かう。ヨハネス十三世の逃亡中、彼をかくまっていたカプア・べネヴェント両公国のパンドゥルフ鉄頭公と良好な関係を築くためである。

オットーは鉄頭公とその弟ランドゥルフの臣従を受ける。オットーはその返礼とばかりに鉄頭公パンドゥルフにスポレートとカメリノを与える。これら一連の処置はオットーの南イタリア進出の第一歩であった。

ところが、南イタリアは形式的にはビザンツ帝国の宗主権の及ぶところである。そしてこの頃はシチリアを根城に地中海の制海権を握ったイスラームの攻撃にさらされており、安定には程遠かった。

つまりオットーは南イタリア遠征によりビザンツ帝国と直接対峙することになり、結果的には多くの厄介を背負うことになるのである。