残された日記からよみがえった記憶
苛酷な戦場を生き抜いた男たちの多くが、語り残したかったもの。それは、戦争で斃れ非業の死を迎えた「死者たちの記憶」ではないかと、15年間の取材を経て、強く感じている。死者たちはどのように生き、どのように死者となっていったのか。彼らを死に追いやったものは何だったのか、そしてそこから僕たちは何を学べるのか。
取材を続けるなかで、そうした記憶がどう引き継がれていき得るのか、新たな気づきもあった。2021年に真珠湾攻撃隊の番組を作るにあたり、僕は、遺族名簿などを手がかりに連絡先の分かる100家族ほどに手紙を出し、亡くなった方についてどんな些細なことでも構わないので教えて欲しい旨をお伝えした。
その一部は、宛先人不明で戻り、大部分からは返事をいただくことができなかったが、思いがけない便りをくれる遺族もいた。そうしたひとりが、長野県の伊那地方から徴兵で海軍に入り、選ばれて搭乗員となり、真珠湾攻撃の当日に戦死した
その太志郎さんに会うため、2021年9月、僕は伊那の谷にある、北原家に向かった。収穫前の黄金色に輝く田んぼの真ん中に、黒塗りの塀に囲まれた母屋がたたずんでいる。80年前の空気をそのまま留めたような光景を見て、ここは、記憶が宿るのにうってつけな場所かもしれないと感じたことを、覚えている。

僕と同年代、この時40歳の太志郎さんは、家の蔵で「お宝探し」をしていた大学生の時、祖父の弟、いわゆる「大叔父」にあたる收三さんの日記帳を見つけ、その人生について調べ始めたのだという。1941年1月1日から一日も欠かすことなく綴られたその日記帳は、攻撃を翌日に控えた12月7日の記述を最後に、永遠の空白となっていた。