「草津バッシング事件」の教訓…「推定有罪」に疑問を抱かない人びとの恐ろしさ

御田寺 圭 プロフィール

たとえ被害救済が目的であろうと、「MeToo」というロジックは、本質的にはひとりの人間の権利や自由などたやすく踏みつぶす、超法規的で圧倒的なパワーを有する「自警団的な暴力」になりうる。だからこそ、このムーブメントを支持し、その社会的必要性を強調する者ほど、「MeToo」が法治主義社会とどうにか折り合いがつけられるよう、公正かつ妥当に運用されるよう努力を惜しんではならなかった。たとえば虚偽の告発などによって「ハック」されるリスクを厳重に監視し予防していく必要があった。

そのためには「被害者」に対しても、その告発を一度落ち着いて受け止めた上で、「本当にそのような被害があったのか?」と批判的で客観的な視座を持つことも不可欠だっただろう。またかりに告発者の側に立つとしても、被告発者の言い分はどうするのかとか、落としどころはどうするのかとか、告発が間違っていた場合はどうするのかとか、そういった“課題点”や“着地点”についても継続的に議論し、自己批判していかなければならなかった。比類なき権力には、相応の責任と監査が求められるのは当然のことだ。

 

――だが「MeToo」を支持した人びとは、これらの一切を怠った。

怠っただけならまだしも、そうした相対的で批判的な議論が起こりそうになろうものなら「二次加害をやめろ!」といった声を上げて、これを封殺する側に回ってしまった。

かれらは、告発の妥当性そのものではなく「MeToo」という運動の問題点を指摘する者に対してすら「二次加害者も同罪だ!」として激しく糾弾してきた。ゆえに自己批判が不可能になり、運動の内部で「相対的議論」を提起することすらできなくなるという自縄自縛に陥っていたのではないだろうか。

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