真珠湾の英雄となった男たちは過酷な運命に翻弄され、散っていった。妻を想い、家族を想い、彼らはどう生き、死んでいったのか。忘れてはならない物語がここにある。
国に「死ぬまで戦うこと」を求められた同胞たち
〈うとうとやって居るとお前の夢を見た。
どんな夢だと思ふ。
何時もお前がやって見せるオチョボの顔をして笑ってゐる夢だった。
おいと言って抱こうとすると、丁度其の時、従兵に起こされた。
残念であった。もっとお前と逢ってゐたかった〉
これは、太平洋戦争に参加していた兵士が、1943年9月4日に妻へ綴った手紙だ。送り主の名は松埼三男(みつお)さん。真珠湾攻撃で、一番先頭を飛ぶ指揮官機の操縦員である。

無事に帰還した三男さんは、'42年に幸子(ゆきこ)さんと出会って結婚、しかし翌年に戦死した。
短い新婚生活の間に、冒頭で紹介した手紙のやり取りがあったと判明したのは、真珠湾攻撃から80年が過ぎた2021年のこと。息子の洋祐さんによると、生前の幸子さんは、決して手紙の中身を見せてくれなかったという。
母の死後、父親について深く知りたいと考えた洋祐さんが遺品を開けたことで、「ラブレター」の存在が明らかになった。
'41年12月8日の真珠湾攻撃には、三男さんを含め900人近くの隊員が参戦した。その後、一年以内に半数が命を落とし、ほとんどが終戦までに戦死している。彼らは最前線に立たされ続け、文字通り死ぬまで戦うことを求められていた。真珠湾の「英雄」に祀り上げられた男たちは、その後、どのような運命を辿ったのか。
'21年12月、隊員とその家族を追ったドキュメンタリー番組『真珠湾80年 生きて 愛して、そして』(NHK BS1)が放送された。
この放送では紹介しきれなかったエピソードや、新たな発見を盛り込んだ書籍が、11月20日に発売された『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』(講談社現代新書)だ。そこに描かれている、「海と大空に散った魂の物語」を紹介しよう。
妻という字が愛しい
三男さんと幸子さんは、当時としては珍しく恋愛結婚だった。上の写真は、'43年5月15日に愛知県の熱田神宮で二人が式を挙げたときの写真だ。