夫の戦死前に2人で過ごした幸せな4ヵ月間。85まで独身を貫いた妻の最期の言葉は「嘉太男さん、助けて」

真珠湾の英雄となった男たちは過酷な運命に翻弄され、散っていった。妻を想い、家族を想い、彼らはどう生き、死んでいったのか。忘れてはならない物語がここにある。

前編『真珠湾「戦死した夫の弟との再婚」を勧められるも子供を連れ家を出て80年、最愛の夫の最後のラブレターでは、真珠湾攻撃の先頭を飛ぶ指揮官機の操縦士であった松崎三男さんとその妻の物語などを紹介した。後編では、2人の息子を亡くした福谷さんの両親がどのようにその死を受け入れたのか。そして結婚後に妻と入籍を果たせなかった兵士が何とか残される妻を守りたいがために奔走した軌跡や、その後1人になった妻の生涯についてお届けする。

それぞれの家のそれぞれの「真実の物語」

髄膜炎を患うという思わぬ形で次男を亡くし、1年後には頼りにする長男・福谷知康さんの戦死を知らされた福谷さんの両親。重すぎる事実とどのように向き合っていったのかがわかる手紙が、遺品として残されていた。

たとえば、知康さんの一周忌が間近に迫る'43年4月27日付で届いた2通の手紙。送り主は、空母「瑞鶴(ずいかく)」に配属され、珊瑚海海戦では同じ攻撃機に乗って戦死した2名の隊員の父親である。それは知康さんの父親が3人の命日を前に、お悔やみの言葉を送ったことに対する礼状のようだった。

そして8月には、知康さんと同じ瑞鶴艦攻隊の一員として真珠湾攻撃に参加し、珊瑚海海戦でも生き延びた隊員とも手紙のやりとりを行っている。先方から来ていた手紙にはこう書かれていた。

〈御子息故知康殿に就而(ついて)様々とお話を致度(いたした)く存じますからお暇の節はお出で下さい〉

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両親は、知康さんの瑞鶴での生活、そして可能であれば最後の様子を知りたかったのだろう。その後、面会したかどうかは定かではない。ただ、福谷家で知康さんは「敵空母に体当たりし、撃沈した」と言い伝えられている。

瑞鶴の飛行隊の戦闘行動調書には、撃墜された攻撃機で、敵空母に体当たりしたと報告された機体はひとつもない。だが、福谷家にとってはそれが「真実の物語」となった。愛する者を失った無数の家族の間で、いったいいくつの物語が生まれたのだろう。

戦争が終わって20年が過ぎた頃、知康さんの父親は墓石を建てた。正面に「福谷家之墓」と刻まれた墓石の側面には、力強い文字で、こうびっしりと彫り込まれている。

「故海軍一等飛行兵曹 勲七等功五級 福谷知康 昭和十七年五月八日 サンゴ海々戦に参加 米空母サラトガに突入自爆」

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