母が決めた結婚相手を後家にしないよう配慮
最後に紹介するのは、爆弾を装着し、敵艦に突入する最初の真珠湾攻撃隊員となった鳥取・米子出身の原田嘉太男さんだ。
嘉太男さんが真珠湾の直前に母のつる子さんに送った手紙には、適齢期を迎えた長男のために結婚の世話をしようとする母に「自分の眼で選びますから安心して下さい」と書いている。
だが、'44年10月、嘉太男さんは自らの意に反し、母の決めた女性・達子さんと結婚する。嘉太男さんの気持ちを、弟の昭さんはこう推し測っている。 「兄は、この戦争を生き抜くことの難しさを骨身に沁みて感じながら、家の長男として跡取りを残すという務めも果たさなければならないと考えたのかもしれません」

愛媛県松山で4ヵ月の新婚生活を送った後、'45年2月、千葉県にある基地への進出を命じられる。最後に与えられた任務は、硫黄島付近にいる敵空母に特攻することだった。
出撃前夜、嘉太男さんは事務方の将校にこう語ったと記録されている。 「私の妻は未だ入籍していないのです。入籍してあれば戦死者の遺族ということで、扶助料なりもらえるそうじゃありませんか。ロクなこともしてやれなかった女房が可哀想でしてねぇ」
それから、苦悶の表情を浮かべながら印鑑を差し出したという。
前年に式を挙げたにもかかわらず入籍していなかったのは、達子さんを後家にしてしまううしろめたさがあったからではないか。死が間近に迫るなか、自分が妻にできることを悩みに悩んだ末、扶助料という形で償う道を選んだのだろう。
夜明け前、事務方の将校が仕事を終えて宿舎へと続く廊下を歩いていると、低い歌声が聞こえてきた。外で嘉太男さんが童謡「赤とんぼ」を歌っていたのだ。歌い終わっても、立ち尽くしたまま動かなかったという。
印鑑を渡したとき「これで私も思い残すことはありません」と話したとされる嘉太男さんだが、二度と見ることのできない夕焼けや故郷の風景に思いを馳せていたのかもしれない。