ついに完結!鎌倉幕府方はいかにして承久の乱を制したのか?

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第47・48話
日本史の一大転換点、承久の乱。その勝敗はいかにして決まったのだろうか。
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビュー。最終回となる今回は、先週放送の第47話「ある朝敵、ある演説」、昨日放送の最終話「報いの時」について、専門家の立場から詳しく解説します。

『鎌倉殿の13人』の第47話では後鳥羽上皇の挙兵と北条政子の演説、最終回の第48話では承久の乱最大の激戦である宇治川の戦いと北条義時の最期が描かれた。己が果たせなかった夢を息子泰時に託そうとしていた義時は、志半ばで無念の死を遂げる。歴史学の観点から第47・48話のポイントを解説する。

院宣は発給されたか

承久3年(1221)5月15日、後鳥羽上皇の命を受けた大内惟信(平賀朝雅の甥)・三浦胤義(三浦義村の弟)ら800余騎が京都守護の伊賀光季(北条義時の義兄)の屋敷を襲った。承久の乱の始まりである。

慈光寺本『承久記』によれば、光季配下の武士は85騎、しかも逃亡者が続出して、残ったのは光季・光綱父子と29騎というから、とても勝負にならない。奮戦空しく、光季は屋敷に火を放って自害した。倒幕の挙兵の狼煙が上がったのである。

間髪を置かず、後鳥羽上皇は北条義時追討の官宣旨を発した。官宣旨とは、太政官の上卿(担当公卿)の命令に基づき,太政官の一部局である弁官局が諸国や寺社を宛先として発給する下達文書のことである。ちなみに、この時の官宣旨発給の上卿は内大臣源通光、担当弁官は右大弁葉室資頼、資頼の指示を受けて実際に官宣旨を作成した書記官は右大史三善信直である。

この官宣旨は五畿七道、すなわち日本全国の守護・地頭に対して、義時の追討を命じている。幼少の三寅を傀儡として専横の限りを尽くし、朝廷を蔑ろにする義時の行動は謀反に他ならない、というのが後鳥羽院の主張である。劇中でも描かれたように、後鳥羽上皇は北条義時一人を標的にしていた。幕府の内部分裂を意図してのことだろう。

さて、『承久記』諸本によれば、後鳥羽上皇は7通の院宣を東国の有力御家人に送り、義時を討つよう命じたという。慈光寺本『承久記』は院宣の文面まで引用し、武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村の8人に送ったと記す。『鎌倉殿の13人』はこの慈光寺本『承久記』の記述に依拠してストーリーを展開していた。

鎌倉時代研究者の長村祥知氏は上の記述に着目し、現存する官宣旨とは別に、院宣も発給されたと説く。長村氏は、東国の有力御家人は院宣で、全国の不特定多数の武士は官宣旨で動員するという二段構えの戦略を想定している。