死者8名、史上最悪の獣害「三毛別事件」の陰で…村人を恐慌状態に陥れた「別の人喰いヒグマ」が存在していた
三毛別事件後、近隣で2人が喰い殺された
史上最悪の人喰い熊事件として知られる「苫前三毛別事件」。
大正4年12月に発生し、一説に死者8名、重傷者2名を出す前代未聞の大惨事となった。その経緯は、広くネット上で知られている通りである。
しかしその後の同地域の状況については、あまり知られいない。特に事件後の翌年と翌々年に、同じ苫前村内で二件の人喰い熊事件が発生し、2名が喰い殺されている事実はほとんど知られていないだろう。
筆者は北海道における歴史に埋もれたヒグマ事件を掘り起こした『神々の復讐 人喰いヒグマたちの北海道開拓史』を上梓した。本稿では、加害熊射殺後の顛末について、筆者が入手した資料から辿ってみたい。
悪神が熊嵐を吹かせたのか
まず、吉村昭の小説のタイトルともなった「羆嵐」についてである。
三毛別事件の加害熊が射殺されたのは、12月14日午前10時ころで、直後に天候が急変し、寸先も見えない暴風雪となったと伝えられる。
その猛烈さは、当時の地元紙も報じている。
「十四日午前十時からの暴風は未曾有の猛烈を極め、電柱を折り屋根を剥ぎ、家屋を倒し、板庫を吹き飛ばし、路上の人を傷つけ、船舶漁具を流失または破壊し、巨浪は市街にまで奔入し(後略)」(『北海タイムス』大正四年十二月二十八日)

「熊嵐」については、越後国塩沢地方の民話奇伝を記録した『北越雪譜』にある、「山家の人の話に、熊を殺すこと二三疋、或いは年歴たる熊一疋を殺すも、その山かならず荒る事あり、山家の人これを熊荒といふ」の一説が知られている。
年齢を経た熊は山の主となり、不思議な力を持つものだと人々は信じたのである。
しかし実は、三毛別事件の前後、三度にわたって暴風が吹き荒れていたことが、当時の新聞記事から判明した。
たとえば、事件の2週間ほど前、現場にほど近い羽幌の、奇しくも同じ地名の「三毛別」地区で、同じような暴風が吹き荒れた。
「十月二十八日、各地暴風雨の際、羽幌村字築別御料農場字三毛別の一部に旋風起こり、立木を倒し屋根を巻き上げ惨状を呈したが、同村七号中島繁次郎宅その他、住宅三戸、物置二棟倒壊し、半潰れ二戸を出し、折悪しく中島方に針仕事をしていた(中略)後藤キヨ(六十七)は梁のために圧死」(『小樽新聞』大正四年十一月六日)
さらに事件の2週間後にも、隣村の鬼鹿村で大きな被害が出て、「二十三日午前一時頃より南西の強風烈しく雪を交え、ついに屋根を吹き飛ばされた戸数三十余、海水の浸入せるもの七戸あり」(『小樽新聞』大正四年十二月二十九日)の記事がある。
というわけで「熊嵐」は単なる偶然だった可能性が高いが、しかし加害熊である、かの「袈裟懸けの金毛熊(胸回りに白毛が生えた赤毛のヒグマ。「袈裟懸け」は全体の一割程度という)」が「ウエンカムイ(アイヌに祟りや病魔など不幸をもたらす悪神。『羆の実像』『ヒグマ大全』《門崎允昭著》より)」であったと信じたいのは、読者諸氏も同様だろう。