2023.01.22

死体に「麻酔」をかけて、「動いている心臓」を取り出した…医師が明かす「死」のひとつのありかた

ここに脳死に関するダブルスタンダードが発生します。

仮に、あなたが五歳の息子(または娘、孫等)をプールに連れて行ったとき、ちょっと目を離したに姿が見えなくなり、プールの底に沈んでいるのを発見されたとします。心肺停止だけれど、蘇生処置を施すと心拍が再開した。手押しバッグの補助呼吸から、病院で人工呼吸器がつけられ、集中治療室に収容される。しかし、意識はもどらず、六時間の間隔を空けた二回の判定で、脳死と診断される。

そのとき、あなたは子どもの心臓を、臓器移植のために提供できるでしょうか。

今朝まで元気に遊んでいた子どもが、夕方には臓器の提供を迫られるのです。これだけ医療が進んでいるのに、もう少し何とか治療を尽くしてもらえないか。せめて心臓が止まるまで、あきらめないで治療を続けてくれないか。そう思って、脳死を否定したくなるのが人情でしょう。

さて、ここで反対の立場を考えてみてください。

五歳の息子(娘、孫等)が、どうもこのごろ元気がない。病院で詳しい検査を受けると、拡張型心筋症と診断された。心臓移植以外、救う手立てはない。移植を受ければ天寿をまっとうできるけれど、移植ができなければ余命は半年。そう言われたとき、あなたは移植を求めずにいられるでしょうか。どこかで溺れた子どもがいて、脳死と判定されたと聞けば、心臓を提供してほしいと思いませんか。

自分の子どもが、脳死になっても認めないけれど、心臓移植が必要になったら移植を望むというのは、ダブルスタンダードです。脳死になっても、心臓が止まるまで治療を求めるというのなら、移植が必要になっても、それを求めてはいけないし、移植が必要なときそれを求めるのなら、子どもが脳死になったときには心臓を提供しなければならない。それが成熟した判断というものでしょう。

厳しい選択かもしれませんが、ダブルスタンダードは身勝手であり、自分さえよければいいと言っているのも同じです。

このとき、冷静な判断を下すために役立つのが、正確な知識です。医療者の多くは、移植が必要になればそれを求める代わりに、脳死を受け入れる判断を下すでしょう。なぜなら、脳死が人の死であることは、理論上、経験上、実際上、十分に理解しているからです。

死の実際を見るなら、こういうレアケースも視野に入れる必要があるし、危機管理的には、最悪のケースや決断が困難な状況も、考えておく必要があります。それがいざというときの心の準備になるのですから。

連載記事<人が「死ぬとき」はこんな感じ…患者の「死に際」に行われる医師の「パフォーマンス」>では、人が死ぬ時の様子をさらに詳しく解説します。