「死」を受け入れている…医療が不十分でも「パプアニューギニア人」が絶望しないワケ
私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。
望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。
*本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

「死を受け入れやすい国民性」パプアニューギニア
オーストリアの次に赴任したのは、赤道にも近いパプアニューギニアでした。
オーストラリアの北にあるカメのような形の島の東半分。七百ほどの部族がそれぞれちがう言葉を話す世界有数の言語密集地です。
ウィーンとは比べものにならない生活環境なので、家族はいったん日本に返し、ようすを見て半年後に呼び寄せました。
私が赴任した一九九〇年代の半ばは、首都のポートモレスビーでさえ裸足で歩く人が多く、ラスカルと呼ばれるギャングが横行していて、夜間外出禁止令が出ていたり、夜中に銃声が聞こえたりという物騒な状況でもありました。
その代わり、人々の暮らしはのんびりして、町中でおいしいパパイヤの実が穫れたり、昼間から何もせずに座っている人たちがいたり、ブアイと呼ばれるビンロウジュの実をんで、口を真っ赤にしている人がいたりしました(ビンロウジュの実には覚醒作用があり、石灰を混ぜてむと鮮やかな朱色に変色します)。
現地の医療事情を調査するため、保健省に問い合わせると、事務次官が直々に会ってくれることになりました。私の肩書は一等書記官でしたから、先進国ではあり得ない厚遇です。彼の国はそれだけ日本を重視してくれていたのでしょう。
面会に応じてくれたテム次官は、四十代の若い医師で、シドニーの大学で医学を学んだインテリでした。物腰も控えめで、しゃべり方も洗練されていました。
一通りパプアニューギニアの医療体制などを聞いたあと、例によってがんの終末期医療についてねると、テム次官はかすかな苦笑を浮かべて答えてくれました。
「我が国では、がんで亡くなる患者はそれほど多くはない。死因の上位は肺炎とマラリアです」
当時、パプアニューギニアは平均寿命が五十歳代後半で、首都でさえ病院は「総合病院」が一つあるだけでしたから、日本の状況とはかなりちがって当然でした。
「でも、がんで亡くなる人もいるでしょう。そういう人にはどんな治療をするのですか」
私が聞くと、テム次官は穏やかに答えました。
「がんと診断された患者は、入院せずに故郷の村に帰ります。そこで人生の最後の時間を家族とともにすごすのです」
「日本とかオーストラリアに行って、治療を受けようとする人はいないのですか」
「先進国に行けば、進んだ治療が受けられることは、みんな知っています。テレビがありますからね。しかし、外国で治療を受けるというのは、経済的にも手続き的にも、自分たちの選択肢ではないことを、みんなわかっているのです」
「でも命がかかっていることでしょう。進んだ治療を受ければ、助かる見込みがあるじゃないですか」
まだ若かった私は、みすみす治療を放棄するような判断が理解できませんでした。