せっかく穏やかな「死」を迎えた78歳女性を、わざわざ「蘇生」させるために行われた「非人間的な医療行為」
私は医師として、多くの患者さんの最期に接する中で、人工呼吸器や透析器で無理やり生かされ、チューブだらけになって、あちこちから出血しながら、悲惨な最期を迎えた人を、少なからず見ました。
望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるのでしょう。
*本記事は、久坂部羊『人はどう死ぬのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

死に目に間に合わせるための非道
日本では死に目に会うことを、欠くべからざる重大事と受け止めている人が多いようです。特に親の死に目に会うのは、子として当然の義務、最後の親孝行のように言われたりもします。
しかし、感情論ではなく、その意味を現実的に考えるとどうでしょう。
以前、私が在宅医療で診ていた乳がんの女性・Kさんが、いよいよ臨終が近づいたとき、入院の手続きをとりました。Kさんは七十八歳で、ぎりぎりまで家にいたいけれど、最後は病院でと希望していたからです。
十日ほどして、病院の主治医からKさんが亡くなったという報告書が届きました。それを読んで私は愕然としました。
報告書によると、看護師が午後八時に巡回したときにはKさんは異常なかったけれど、午後十時に巡回すると、心肺停止の状態になっていたそうです。看護師はすぐに当直医に連絡し、当直医は気管内挿管をして、人工呼吸器につなぎ、カウンターショックと心臓マッサージで心拍を再開させることに成功しました。その後、ステロイドや強心剤を投与して、翌日の午後八時に、無事、家族に見守られて永眠したとのことでした。
具体的な文章は忘れましたが、心肺停止でだれにも看取られずに亡くなりかけていたKさんを、見事、蘇生させて、家族が死に目に会うことを実現させられたと、いささか誇らしげに書いてあったように記憶します。
たしかに家族は喜んだかもしれません。きっと感謝したことでしょう。しかし、亡くなったKさん本人はどうだったでしょう。
一般には心肺停止の蘇生処置がどういうものか、具体的に知らない人が多いでしょうから、この話は美談のように受け取られるかもしれません。しかし、実態を知る私としては、なんという無茶なことをと、あきれるほかありませんでした。
まず、人工呼吸のための気管内挿管は、喉頭鏡というステンレスの付きの器具を口に突っ込み、舌をどけ、喉頭(のどぼとけ)を持ち上げて、口から人差し指ほどのチューブを気管に挿入します。意識がない状態でも、反射でむせますし、喉頭を持ち上げるとき、前歯がてこの支点になって折れることもままあります。そうなれば口は血だらけになります。
そのあとのカウンターショックは、裸の胸に電極を当てて、電流を流すもので、往々にして皮膚に火傷を引き起こします。心臓マッサージも、本格的にやれば、肋骨や胸骨を骨折させる危険性が高く、Kさんのように高齢でやせている人なら、骨折は一本や二本ではすまなかったと想像されます。