私が怖かったことは…

最期の日の朝、こりきが食べ物も水も受けつけなくなった時、私は、「その時」が近いことを覚悟した。
この無類の食いしん坊がこうなったら、もう残された時間は長くはないだろう。

こりきをかわいがってくれていたご近所さんや友人に連絡すると、みなさん次々に会いに来てくれた。
 その合間には、ずっとこりきの側に寄り添って、頭をなでてこう言い続けた。

「こりちゃん、怖くないよ。淋しくないよ。こりきは、ずっと私の側にいるんだよ。これからも、ずっと一緒だからね」

ずっとこりきの側に寄り添っていた 写真提供/折原みと

その時になって、気がついた。
私が怖れていたのは、自分自身のペットロスではなかった。

何よりも心配だったのは、この甘ったれでビビリのこりきを、最期の時に、幸せに旅立たせてやれるかどうか……ということだったのだ。

できるだけ辛い思いをさせたくなかった。不安にさせたくなかった。最後に目を閉じる瞬間には、絶対に側にいてやりたかった。
動物は、ちゃんと家族のいる時間を選んでさよならをする……と、よく聞くことがあるが、こりきの場合もそうだった。

こりきは、ちゃんと別れの時を選んでくれた

その翌日、私は横須賀で市民向け小説講座の講師を務めることになっていて、それだけは、何があってもキャンセルすることはできなかった。
もしも私がいない間に、こりきをひとりで旅立たせることになったら……と、不安でたまらなかった。

でも、
こりきは、ちゃんと別れの時を選んでくれた

いつものように私に寄り添い、私の声を耳にしながら、安心して旅立って行ったのだと思う。

折原さんが描いたこりきの絵 写真提供/折原みと

こりきがいなくなってからも、私は今まで通り、朝夕の散歩にでかけている。

「こりき、お散歩いくよーっ!」と威勢よく声をかけて家を飛びだし、いつもの散歩道を歩く。
これも、先代の時に実践していた「ペットロス対策法」の一環だ。
急に生活のリズムを変えると、心身ともに調子が狂う。

お散歩が大好きだった 写真提供/折原みと

無理に「変化」や「喪失」を受け入れずとも、気がすむまで、心のおもむくままにすればいい。
そうしていうるちに、自然とそれを受け入れられる日が来るということは、すでに経験ずみだ。