2022.12.26

なぜ「特攻」が始められ、とめどもなく続けられたのか…そのとき、軍部が「対策を迫られていたもの」

孤独、親・恋人への思い…「神」と讃えられた特攻隊員は何を考え、亡くなっていったのか。新出史料をもとに、当時の日本人の心奥に分け入る一冊。生還の見込みのない体当たり兵器に乗り込んだ若者たち。戦局挽回、国民の士気高揚を目的に「一億総特攻」を打ち出す軍上層部、メディア。国民は特攻、そして特攻隊員をどう見ていたのか。前線、銃後の人びとの生の声をもとに、特攻を再現する。

*本記事は、一ノ瀬俊也『特攻隊員の現実』(講談社現代新書)を抜粋・再編集したものです。
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一撃講和論

天皇や伏見宮たち陸海軍はサイパン島の奪回こそ諦めたが、戦争自体の継続では一致していた。連合国は日独に無条件降伏を要求していたし、日本はまだ広大な占領地を保持し、本土への直接上陸を許してもいなかったからである。だが、どのようにして戦争を終結させるかの展望は指導者層、そして国民にも示す必要があった。そのさい戦争終結構想として唱えられたのが「一撃講和論」である。その内容を端的に示すのが、陸軍大将・東久邇宮稔彦王の一九四四年七月一一日の日記の「わが海軍は、なお最後の一戦をやる余力があるから、陸海軍の航空戦力を統合して、アメリカ軍に一撃を加え、その時機に和平交渉をするのがよい。これがためには、陸海軍統帥部の一元化と航空戦力の一元化を、急速に実施しなくてはならない」という記述である(東久邇稔彦『一皇族の戦争日記』)。

「最後の一戦」すなわち決戦で米軍に一撃を加えて有利な立場を築き、そのうえで和平交渉をおこなうというのである。ほかに戦争終結の見込みは思いつかないので、米国側が一度負けたぐらいで和平交渉に応じるかについては、考えないことになっている。

現在の目からすれば、どうせ降伏に追い込まれるのであれば、はやく降伏していれば沖縄戦や原爆投下、ソ連参戦も避けられたと思う。しかし当時の戦争指導者たちはそうは考えなかった。内閣総理大臣・陸軍大将の小磯国昭は敗戦後の一九四九年、日米戦史編纂を担当していたGHQ(連合国軍総司令部)歴史課のヒアリングで「負け戦と云うことを承知している政府が、ここで直ぐ講和をすれば苛酷な条件に屈伏せねばならず、勝っているとのみ信じている国民は之に憤激して国内混乱のもとを為すであろう」、「今度会戦が起りましたならばそこに一切の力を傾倒して一ぺん丈でもいいから勝とうじゃないか。勝ったところで手を打とう、勝った余勢を駆って媾和すれば条件は必ず幾らか軽く有利になる訳だと思ったのです」と回想している(佐藤元英・黒沢文貴編『GHQ歴史課陳述録 終戦史資料(上)』)。