今も多くの人の心を揺さぶる伝説のロックシンガー尾崎豊さん。妻の繁美さんが、亡くなってから30年目の今年、長く封印してきた尾崎豊さんへの想いや心に秘めてきたことを語る連載です。
前回の8回目では、繁美さんが20歳、豊さんが22歳のときに入籍した経緯と、婚姻届を提出した1日について紹介しました。
婚約期間中の豊さんは、拘置所を出所後に実家で暮らすことを余儀なくされている期間。武蔵野の面影が残る埼玉県朝霞市の家で、ごくごく普通の日々……そう、陽だまりにいるような優しい時間を過ごします。 入籍を決めたのは、豊さんの強い希望から。婚姻届けを提出したのは、1988年5月12日の2時55分「ふたりでゴーゴー」でした。これも豊さんの発案でした。
若者のカリスマであり、大スターである尾崎豊さんの内面は、光と闇のコントラストが強く、純粋で激しく、突き抜けるように明るく、途方もない寂寥と孤独感も抱えていました。繁美さんはそのすべてを見抜き、受け入れ、愛した……。だからこそ、豊さんは繁美さんを伴侶に選んだのです。
第9回目の今回紹介するのは、そんなふたりの結婚生活について。繁美さんの目から見た、ひとりの男としての「尾崎豊」、そしてアーティストとしての「尾崎豊」とは……?
以下より、尾崎繁美さんのお話です。
常に音楽がある毎日だった
入籍してからも、朝霞の実家で変わらず過ごしていました。というのも、覚醒剤取締法違反の判決が下されたのが1988年2月だったので、身元引受人であるお父さんの近くに住んでいなければならなかったからです。
豊は当時、表立った活動を制限していたので、大げさではなく私と24時間ほとんど一緒にいました。眠るのも食事をするのもずっと一緒。もともと私はひとりでいる時間も好きなタイプだったのですが、豊が激しくやきもちを焼くこともあり、ほとんど同じ時間、同じ空間で過ごしていました。そうすると、 トイレに行く時間も同じになり、顔も似てくるから不思議です。何も言わなくても考えていることがお互いにわかってくるのです。
表現者である豊は、家の中でも常にノートや手帳を持ち歩いて、そこに様々なフレーズ、感じたことをメモしていました。朝はピアノの音色で始まり、夜はギターをつまびいて眠りにつく。まさに、音楽とともにありに、包まれた1日でした。彼が音楽に向き合っている間、私はずっと隣にいて、作品や作品の原型が生まれる瞬間に立ち会い、見つめていました。
当時は4枚目のアルバム『街路樹』(1988年9月1日発売)のレコーディングやプロモーションビデオの撮影なども終わっていたので、凪のような静かな時を過ごしていました。豊は、街路樹のジャケット写真の自分の顔が穏やかで柔らかな表情をしていると言って、とても気に入っていました。あの頃、私たちふたりの時間は思いのままに流れていました。