ああ残念、岸田文雄首相の「敵基地攻撃能力」は20世紀型の戦争論でしかない《保阪正康・連載開始》
歴史から現代史を斬る岸田氏はなぜ宏池会の伝統を打ち捨てたか
12月16日、政府は戦後日本の安全保障体制を大きく変える閣議決定をしました。「国家安全保障戦略」「国家防衛戦略」「防衛力整備計画」からなる防衛3文書の改定です。
国民の合意なく、国会での深い審議もなく、有識者会議の内実も明かさないという、決定プロセスの非民主性、非透明性を指摘しなければならないのは当然として、文書の内容と、定見なしにエスカレートしていく感のある軍事戦略の方向性を精査していくと、岸田内閣は政治的な常識や道筋を持たない政権であると、私は痛感せざるを得ません。
岸田首相が属する政治派閥「宏池会」は、安全保障において、戦後保守政治のなかでもとりわけ専守防衛を旗印に掲げてきました。
経済重視の平和主義を推し進めた保守本流の吉田茂の流れを汲み、1957年、池田勇人が宏池会を創設します。1960年、首相に就任した池田は防衛費倍増ならぬ「所得倍増計画」を閣議決定します。
ブレーンとなったのは経済学者の下村治と、首相秘書官の伊藤昌哉です。池田の経済政策は以後14年に及ぶ高度経済成長を牽引することになるのですが、これは満州事変から14年で敗戦の破局に至った日本人の戦争体験を反転させる、経済と平和による戦後のもう一つの闘いであったと私は見ています。
また池田らは、安保闘争に集結した国民の政治的エネルギーを、経済成長の原動力に転換するという巨大な戦略も抱いていました。

このように、宏池会に属する政治家たちは、優れた知力と戦略を持っていたのです。田中角栄とともに日中国交正常化を成し遂げた大平正芳や、平和外交に力を尽くした宮澤喜一らの政治的な伝統は、いまなお振り返るに値すると私は考えています。
しかし、いまや岸田政権はその伝統をやすやすと打ち捨てて、「敵基地攻撃能力」なるものの保有や兵器のさらなる近代化を理由にした防衛費増額を、唐突とも言える形でごり押しし、強い批判にさらされているわけです。