ADHD(注意欠陥・多動性障害)とASD(自閉スペクトラム症)の人々が、「生きづらさ」を抱えた人として認識されるのに対し、そうでない人は彼・彼女らと自分を比較して「自分は普通である」と認識していることが多いだろう。
しかし、それは必ずしも自明のことではないのではないか。
精神科医の兼本浩祐氏が、ADHDやASDなどのいわゆる「非定型発達」の人だけではなく、そうではない人もまた「病」や「普通でなさ」と無縁ではない、と考えるわけとは。『普通という異常 健常発達という病』から一部再編集・抜粋して紹介する。
ADHD、ASDと肺炎はどう違うか
ADHD(注意欠陥・多動性障害)という診断名は、最近、ASD(自閉スペクトラム症)と同じくらいよく耳にするようになりました。
学校現場などで、ADHD的な心性を持つ人たちが「合理的配慮」というかたちで、少しでも生きやすくなり、その将来的可能性が少しでも広がるのであれば、ADHDについての情報が拡散するのも決して悪いことではないでしょう。
しかし、注意をしなければならないのは、ADHDもASDも肺炎と同じような意味での病気ではないという点です。
ADHDやASDは一定の特性を持った脳のあり方に関して割り当てられた名称です。ですから、たとえば、家電のスペックを例にとるならば、壊れにくい家電と多機能な家電があったとして、時と場合によって、そのスペックが不利に働く時もあれば有利に働く時もあるのとそれは同じです。
多機能であるがゆえに壊れやすい家電が野外では使いにくいからといって、それを劣った性能だというのが的外れなのと、単純にASDやADHDを病気だとみなすのは似ています。

もう一つ言うなら、ADHDとかASDとして特定の脳を総括する場合、それは、家電の仕様書に書いてあるように、その性質を持っているか否か二者択一式に◯×をつけることができる
誰もがいくぶんかはADHD性なりASD性なりを持ち、それがある程度極端だと場合によって生きづらくなる、そういったものなのだと理解しておく必要があります。ですから、「忘れ物が多くて」「落ち着きがなくてじっとしておられず」「カッとなりやすくて」「根気が続かない」障害を持った人がいるという単純な理解には実情にあわない点が少なからずあるということです。