正義感のあまり、客観性を失う
その風潮については、07年に「危ないミクシィ」という書籍にまとめたことがあるのだが、共著の民俗学者、大月隆寛さんと話していたとき、彼が「2ちゃんねる」で私刑のようなことを繰り返すユーザーを「ネット正義感」と表現していた。過激な暴露や攻撃でも、それを正義と思えば躊躇がなくなる。たとえ違法であっても「聖戦」のようにして支持していく。現在のネットでも、反ワクチンによるデマとかヘイトスピーチなどの根底に、発する人々が「国や社会のために正しい」と、ある種の正義感を持っている傾向がかなり見られる。
ガーシー議員の場合も、当初は素行の悪い芸能人の下品な遊びを暴露したということで、まるで正義の鉄槌のような空気の中にいた。それを正義と思えば、たとえ脅迫や名誉棄損でも聖戦化してしまう。まるでテロリストの理屈なのだが、この点はマスコミ側にいる人間としても他人ごとではない。記者としての仕事でも正義感を持ち出すあまり、感情的に客観視点を失ってしまうことがあり、筆者自身の経験を含め反省が常にある。

ただ、マスコミの場合、発信元の責任の所在は明確であることから、その失敗も隠れた場所から石を投げるようなことにはなっていない。常に世間に厳しい目で見られ、ネットで「マスゴミ」と叩かれ続けている。しかし、無責任に国外からの配信や匿名での投稿になると、これは正義の気分に浸ったものであっても別物だ。
それがメディアよりも称賛されるなら、「悪貨は良貨を駆逐する」となる懸念がある。マスコミを「善良」と区切るわけではないが、役割としては社会に不可欠な「情報発信」が、俗悪な文化によって衰退していく怖さがある。