国民的女優・泉ピン子さんの連載第9回目。人生相談や時節を感じさせるテーマなどをピン子さん流のユーモアを交えながら、ざっくばらんに語っていただきます。「人生、いい日もあれば悪い日もある」とピン子さん。豊富な経験に裏打ちされた人生トークに心の底から共感すること必至です。今回のテーマは泉ピン子さんがいかにして”本物を見る目”を養ったのか、というお話。

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6歳の6月6日、拷問のような稽古が始まった

撮影/田上浩一

今どき、「将来は、芸能人になりたい」と思っている子どもって、どのくらいいるんでしょうね。昔は、大手の劇団以外は、今みたいなタレントオーディションなんてなかったから、芸能界に入るときっていうのは、だいたいスカウトとか芸能関係者の紹介とか。私の子ども時代は、まだテレビも普及してなかったから、小さい頃は芸能人になんかなりたいとはこれっぽっちも思っていなくて。将来は普通に結婚して、子供を産んで、家庭の主婦におさまるつもりでした。

 

でも、私の父は浪曲作家、母は女流浪曲師。しかも、母の従兄弟の河上五郎というおじさんは、宝塚歌劇団の有名な振付師でした。そのおじさんには子供がいなかったから、おじさんは、私を宝塚に入れようとして、忘れもしない小学校に入学する年、6歳の6月6日から、「雨降りお月さん」なんかの童謡に振りをつけたような踊りと、クラシックバレエの二つの習い事を、強制的にさせられたのです! おじさんが宝塚の仕事から帰ってくると、「小夜(※ピン子さんの本名)、ぼーっとしてないで、カバン置いてこっちに来る!」って言って、扇子をタンタン叩くのを聞くと、「あ〜お稽古が始まる」って憂鬱になった(笑)。「雨降りお月さん」はともかくとして、おじさんに時間があるときは、家で「アン、ドゥ、トロワ」なんてやるものだから、気が休まる暇がなかったんです。

当然のごとく、東京の宝塚劇場にも連れて行かれました。男役の人たちは確かにカッコいいけれど、もうね、歌も踊りも自分がやってる習い事とは次元が違う。もちろん、続けていれば芽が出るかもしれないとは思ったけれど、当時男役のトップだったテーリーこと明石照子さんなんて華やかでね。娘役の寿美花代さんは可憐だった。男役も娘役も無理だと思ったから、あるとき思い切って、「おじちゃま、私宝塚は無理です」って正直に言いました。