2023.01.28

M-1王者ウエストランドの「擬似悪口漫才」に隠された“したたかさと危うさ”の正体

数あるお笑い賞レースの中でも、M-1グランプリほどに議論を巻き起こすコンテストはない。そして、これほどお笑いについて観客が「語る」機会もないだろう。予選の段階から、本命や注目株の話で盛り上がり、放送中のTwitterは実況で埋め尽くされ、決勝後もネタや審査について侃々諤々の議論が交わされる。

この記事では、M-1をめぐる議論のなかでもよく話題となるポイントを取り上げ、漫才以外の演芸やさらには美術におけるアイディアも借りながら論じてみたい。

テレビ朝日「M-1グランプリ2022」公式サイトより引用

なぜここまで語られるのか?

なぜ誰もがM-1についてこれほど語りたくなってしまうのだろうか。M-1を観るとき、視聴者はつい審査員のように漫才を観てしまうものだが、じつは、そこには番組側の誘導がある。本戦前に放送される敗者復活戦では、視聴者が各自の採点を記録できる「採点メモ」機能が提供され、集計結果も放送される。多くの人が、笑いの量やネタの構成、言葉の選び方等について、審査員のように評価を行いながら、漫才を楽しんでいるのだ。

さらにM-1は、ドラマ性や感動を執拗に強調する。M-1にはあって他の演芸番組にはない要素のひとつである。優勝者の涙がクライマックスを形成し、貧乏からの逆転劇が伝説化し、舞台裏の努力と挫折までもがカメラに捉えられる。2022年大会で優勝したウエストランドが決勝のネタのなかで言及した「アナザーストーリー」(決勝の後にM-1参加者を追ったドキュメンタリーが放送されるのだ)がその顕著な例である。

ところでこれらふたつの演出は、互いにバッティングしないだろうか。というのも、漫才を審査員のように観るためには、舞台裏の物語や感動を度外視し、公平に評価することが求められるからだ。それゆえ、漫才を真剣に(もちろん笑いながら)評価したい視聴者にとって、感動路線はあまり心地良いものでない。純粋に漫才だけを楽しみたい、物語や感動は強調しなくてもいい……このように思う人も多いだろう。