前編<私が史上最年少名人になってから~「色紙に名人と書けない」>より引き続きお届けします。
弱い名人から並の名人に
初めて名人に就いた翌年こそ、新名人の真価が問われる。1984年、私は森安秀光8段の挑戦を4勝1敗で退けて初防衛を果たした。これでようやく名人の職責を果たせたと息をついた。記者会見ではその思いを、「これで弱い名人から並の名人になれたと思います」という言葉で伝えた。

しかし翌85年、中原先生の挑戦を受けて名人位を失った。いまでも忘れられないのは、その直後にお会いした中学時代の恩師から、「谷川、よかったな」と声をかけられたことだ。それ以上は言われなかったが、自分なりにその意味を考えると、「この2年間、名人という地位に就いたことで貴重な経験をさせてもらったに違いない。それを一度失って、今度は自分の実力で勝ち取れ」と諭してくださったのだと思う。
それから3年後の1988年、私は中原名人への挑戦者になって4勝2敗で名人位を奪還した。
「中原先生と戦って名人になりたい」という奨励会時代からの夢の実現だった。初めて思い描いていた名人戦の形になって、はるか遠くに仰ぎ見ていた憧れの高峰の頂上に立てた感慨があった。
私はこれまで名人戦に計11回登場した。それぞれ思い出深いが、最も印象に残っているのは、1998年に佐藤康光さんの挑戦を受けて失冠し、翌99年にリターンマッチを挑んだ時の第6局だ。
森内俊之8段とのプレーオフを制し、挑戦者として佐藤名人に2連敗した後、3連勝して迎えた第6局。苦しい将棋を粘って敵陣に入玉した。局面自体は必勝で、寄せに行っても勝ち、玉の近くに駒を打って安全勝ちを目指してもよかった。
すでに20時間ほど対局を続けていたこともあり、「これは勝てるんじゃないか。ひょっとしたら投了してくれるんじゃないか」 と一瞬気を抜いたら、佐藤さんは闘志満々の手つきで指してくる。持ち時間もなくなっていたので、十分に読み切れていないまま寄せに行った。一分将棋になり、即詰みの手を見逃して痛恨の逆転負けとなった。
この前年度は私にとって厳しい1年だった。名人戦で失冠後、王座戦5番勝負で羽生さんに挑戦し、2連勝後、3連敗して敗退。直後の竜王戦7番勝負で藤井猛7段にストレート負けした。何もいいことがなかった1年で、何とか順位戦だけは挑戦者になり、名人位奪還を狙っていた。
この対局が記憶に残っているのは204手の長手数で、私の名人戦の中で最も遅くまで戦いを続けていたからだ。第7局も負けて奪還の機を逃したが、フルセットまで行き、2ヵ月余りにわたり全力を尽くした末の敗退だった。充実感と虚脱感の交錯したシリーズだった。