今も多くの人の心に深く刻まれ、輝き続ける伝説のロックシンガー・尾崎豊さん。長い間、想い出を封印してきた妻の繁美さんが「没後30年」という節目に、豊さんとの想い出を語ることを決意し、始まった連載『30年後に語ること』の第10回目です。

前編では、豊さん22歳、繁美さん20歳で結婚した後、幸せな新婚生活のはずが、「束縛」や「やきもち」が激しくなっていった理由……豊さんが当時抱えていた猜疑心についてお話いただきました。後編では、その後ふたりに起きたふたつの大きな出来事についてお伝えします

以下より、尾崎繁美さんのお話です。

 

「社会が求めるもの」と「自分が求めるもの」

この頃、豊にとって信じられるのは、私だけになってしまったようでした。

所属事務所との関係が行き詰まっているのに、事務所を辞めるには専属契約期間の問題がありました。解決しなくてはならない事柄も多く、移籍するにはまだまだ遠い道のりでした。

その見えない時間に不安を抱くようになり、「外界からの邪魔や障害のない」「無人島に行って暮らしたい」というのが口癖になりました。そしてそれは次第に、「ふたりだけの世界に行きたい」という言葉に変わりました。

豊は自分の環境や周囲との不調和で満身創痍になり、医者から処方される薬の量が日に日に増えていったのです。特に作品を思うように創れる環境ではないと、思い悩んでいるように感じました。

馬車馬のように次から次へとスケジュール入れられ、スタッフとはよい作品を創るために意見をぶつけ合うのではなく、腹の探りあいになってしまったと。どこまで言うことを聞いて、どこまで意見を通すのか......。そんな駆け引きをしながら作品と向き合うことに疲弊しているように見えました。アーティストとマネージメントサイドとの関係が膠着状態になっていくことは、作品を生み出す側のアーティストに極度なストレスがかかる……ということは、たやすく想像できるはずです。

現在開催されている『OZAKI 30』(角川武蔵野のミュージアム:〜2/5まで開催)で、豊が連載していた『月刊カドカワ』を見ることができます。『RED SHOES STORY』について、豊自身が解説した文章に触れることで、豊との日々を鮮明に思い出しました。『OZAKI 30』に行った時に偶然にも見つけ、私自身もとても驚きました。このタイミングで皆さまに共有できることも豊からのメッセージのような気がしています。

儲け合った奴ともおさらばさ。思い出なんて呼べるほど綺麗なものはねぇしさ。

よくやってこられたぜ。まぁこれからも用心することだな。お互いに信用もなくしちまったってのによ。傷みなんて分け合えるわけねぇだろ……。金儲けさ、何もかもすべて……。

おいっ、おまえにはもう借りはねぇよな。いまさらうるせぇぜ。あぁそういえば俺の貸しがまだあったな。そいつは返してくれねぇか。

なぁ若さなんてよ、弱みみたいなもんさ。上手いこと言われるのは最初のうちだけさ。

悔しかったらおまえも人生ってやつをよくよく考えてみるんだな。

ひとつだけ教えてやるよ。成功ってのは運じゃない。だからといってひがんだってしょうがねぇだろう。上手くやるのさ。おまえの将来なんて俺には手に取るほどよく分かる。


精一杯生きるってことは時にはみじめなもんさ。それが笑い飛ばせるうちは、まだまだ尻の青いガキだ。まぁ俺もどこに行くのか分からないし、そんなこと今夜の酒しだい。次のゲームが待ってるんだ。

Love my Rock’n Roll

『RED SHOSE STORY』全曲解説より
『月刊カドカワ12月号』角川書店( 1990年12月1日発行)​

その頃、私は彼の要求に応えることで、豊を苦しみから救いたい……そう思いながらも、その密度が次第に濃くなっていき、心身ともに疲れ切っていました。

でも、この自分の抱えている苦しみを「聴く人を癒す曲に昇華する」ことのできる豊には、それを凌駕するあらがえない魅力がありました。度を超えた束縛に戸惑う日々でしたが、「この人のためなら何でもしてあげたい」と愛する気持ちはどんどん深くなっていきました。