はくや 久三郎。越前の「ハま」から一一年前に国を出た。その家を借りている人は柴(小さい雑木)売りを生業としている。
「久三郎」「はくや」=箔屋つまり金箔・銀箔職人か。このころのかな表記は濁点が無くても濁音で読むことがある(濁音に濁点を必ずつけるようになるのは明治以降らしい)ので、もしかすると馬具屋、つまり馬具職人かもしれない。

この調査から一一年前(現代の言い方では10年前)、つまり天正10年(1582)ごろに越前国(福井県北部・東部)のハマ(浜)つまり海岸部(後述)から京都へ来たようだ。天正10年であれば織田信長が本能寺で死ぬ年にあたる。
久三郎は、越前国の海岸部を出身とし、京都で職人として生き、豊臣政権の時代にはみずからの家を持ち、借家人を受け入れるまでになった。久三郎について語るこの記録は、戦国時代の日本を生きた庶民、つまり特別の社会的地位や卓越した財産を持たない人の履歴がわかる、希有な例である。