久三郎が越前国を出てからこの記録がつくられるまでの11年間は、日本史上でも特筆される動乱期にあたる。織田信長の覇権と本能寺の変による挫折、織田政権のもとで越前国を支配した柴田勝家の賤ケ岳(滋賀県長浜市)の戦いにおける敗北、豊臣秀吉の関白就任、検地と刀狩、そして日本列島の政治的・軍事的再統一など、学校教科書に書いてあるような大イベントが目白押しの時期である。

激動する政局と社会は、越前国を出て京都で生きることを選んだ久三郎の目にどう映っただろう。京都へ向かう久三郎を見送り越前国に残った人びとの目にはどう映っただろう。彼らは、それぞれの地で、どう生きたのだろう。
「階級闘争」史観が「中二病」的英雄像を生んだ?
戦国日本、すなわちおおまかには15世紀後半から16世紀あたりの時代を題材にした著作、とくにエンターテインメント的な創作では、信長や秀吉といった英雄たちの伝説的な政治史・軍事史的イベントばかりが(しばしば過剰に脚色されて)語られがちだ。これに対して庶民は、英雄たちを主語とする物語の中で、往々にして、客体・受け身の存在として描かれる。
英雄たちから平時には過酷な徴税など抑圧的な支配を受け、戦時には生命の危険にさらされて右往左往し、そんなときに「みんなが笑って暮らせる世の中をつくる」などといった独善的(近年の表現で言えば「中二病」的)ヒロイズムに満ちたセリフを吐く英雄が現れ、彼は理想とする社会をつくるために大量破壊大量殺戮を粛々と実施する、といったイメージだ。
このようなイメージが成立したのは、20世紀の第3四半期ごろまでの研究の主流が、戦国時代を含む中世日本における庶民と行政権力との関係を階級闘争すなわち対立の構造で解釈し、財などを一方的に搾取・抑圧される(抑圧に立ち向かうこともある)人民と搾取し抑圧する支配者、との文脈で語ってきたことが影響しているのかもしれない。