「同和のドン」はいかにして誕生したか…話題騒然の「上田藤兵衞」本に登場する暴力団幹部の実名を明かす《人権と暴力の戦後史》
同和のドン講談社から骨太ノンフィクション『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』が発売される。ジャーナリスト伊藤博敏氏が、上田氏の激しく蠱惑的なパーソナルヒストリーに迫る。
350ページ超えの重厚な本書には、自民党の歴代総理大臣経験者や経済人、広域暴力団の親分衆の実名がこれでもかと躍る。マスメディアでは報じられないアンダーグラウンドな戦後日本史に、読者は瞠目するはずだ(以下、文中敬称略)。
『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』連載第2回前篇
二束三文の田畑を20〜30倍の値で売りさばく
上田藤兵衞が「同和のドン」へと成り上がるまでの過程は、一筋縄ではいかない。任侠界の住人、自民党の政治家、右翼活動家など多彩な面々が蠢く中、上田藤兵衞は立志伝中の人物として次第に名を馳せていく。

京都・山科の被差別部落に生まれた上田は、500坪もの敷地にある自宅で裕福な暮らしを送っていた。ところが中学生時代、家業の倒産によって上田家は500坪から四畳半一間の貧乏生活へと転落する。
〈倒産で家庭は崩壊していた。その鬱屈を外で発散し、暴れ者になっていた10代後半の上田にとって救いだったのは、隣家で事業を営む林成夫(なるお)の存在だった。
(略)
「私より20歳ぐらい年上で、『タカちゃん(36歳で藤兵衞を継ぐまでは高雄)』と呼んで可愛がってくれました。高校を辞めて、ぶらぶらしていた私に、仕事のたいへんさと楽しさを教えてくれました」(上田)
(略)
高校退学の後、林商事に出入りするようになっていた上田は、林社長の「土地マジック」を何度も見せつけられ驚嘆したという。
「16歳のときでした。私の先輩が、女と駆け落ちするというので、田畑の権利書と実印を持ってきて、『売ってくれ』という。私が、林商事に出入りしているのを知っていたからです。林社長にその話をしたら、『タカちゃん、いっぺん返しとき』と言う。ところが、また持ってきよった。社長は『じゃ、任しとき』と言う。親の同意書を取らせたうえで、農業委員会に工作して地目を変更し、宅地にして売却したんです。タダみたいな田畑が、瞬時にして20倍、30倍で、右から左に売れる。凄いマジックやね。16歳の子供にしたら考えられない配当ももらったし、『世の中、おもしろいもんやな』と、つくづく思うたんです」〉(『同和のドン』96〜99ページ)
この林成夫なる兄貴分との出会いによって、のちに上田藤兵衞はヤクザを刺し殺し、刑務所に服役することになるのだが――。