国民的女優・泉ピン子さんの連載第10回目。人生相談や時節を感じさせるテーマなどをピン子さん流のユーモアを交えながら、ざっくばらんに語っていただきます。「人生、いい日もあれば悪い日もある」とピン子さん。豊富な経験に裏打ちされた人生トークに心の底から共感すること必至です。今回のテーマは泉ピン子さんが「若い時にやっておけば」と後悔していることについて。
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実は専業俳優が少なかった70年代
青春時代って、いつの頃を言うんでしょうね。私が自分で、「あの頃、青春してたな〜」って思うのは、20代の半ばから後半にかけて。テレビに出るようになって、顔が売れると、女優のお仕事がくるようになって、レコードデビューなんかもしちゃって(笑)。その頃は、文化放送で「歌謡大行進」っていうラジオ番組なんかも始まったから、番組のゲストで、いろんな歌手の人に会ったりすることができたんです。日本って昔から、仕事に関しては何をやるにも「専業がエライ」みたいな風潮があるけど、70年代って、アイドルが映画やドラマに出るのは当たり前だったし、役者がレコードを出すなんてのも普通だった。バラエティ番組にもアイドルが必ず出演していたし、なんかテレビに出る人はみんな「芸能人」というような括りだったんです。
当時から、私の芸能界の親友は西田(敏行)くん。西田くんとは同い年なんだけど、なんとレコードデビューも同じ年(笑)! でも、ラジオを始めたのは私のほうが少し先だったの。あるとき、西田くんが「ピンちゃんのラジオに、海援隊ってくる? すごくいい歌を歌ってるフォークグループなんだけど、もし面識があるなら、ボーカルの武田鉄矢を紹介してほしいんだけど」って言うんです。
西田くんは舞台でデビューして、当時は、テレビにも出るようになって徐々に顔は知られてきたけど、まだまだ能力を出しきれていなかった頃。それで、武田くんと会ってみたら意気投合したみたい。詳しい経緯はわからないけど、その少しあとに、伊東四朗さんや加山雄三さんなんかが出演していた「見ごろ!たべごろ!笑いごろ!」っていうバラエティ番組に、海援隊と西田くんが出るようになって。面白い番組で視聴率もすごかったんだけど、当時は、PTAから「子供に見せたくない番組」の称号をもらってました(笑)。

そのあとで、武田くんがお芝居に進出したら「3年B組金八先生」が当たって、西田くんも、「池中玄太80キロ」で大人気になって、次の年は、NHK大河の「おんな太閤記」で、西田くんと私が共演したり。確かその頃、共同通信が、元旦の新聞に大々的に掲載するからって、西田くんと武田鉄矢と私の3人の鼎談をセッティングしてくれたんです。「飛躍を誓う個性派俳優」みたいな感じで。しかも、鼎談の場所は高級中華店(笑)。いまだに忘れられないのが、円卓を囲んで、「以前はよく『売れなくなったら、3人で全国を回ろう』なんて話してたよね」って、それこそ青春時代の思い出話をしてたら、西田くんが泣いたの。『こんなに売れた』って(笑)。鼎談の帰りに新宿二丁目に寄って、気分よくしこたま飲んだんだけど、そのとき、西田くんが即興で歌を作って歌ってました。あれは、まさに私の青春だったなぁ。年齢的には、3人とも30超えだったんだけど。