【話題沸騰・同和のドン】総理大臣・佐藤栄作肝いりで設立された部落解放団体「全日本同和会」草創期の記憶《戦後史の死角がここにある》
同和のドン講談社から2月9日に発売される骨太ノンフィクション『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』は、ジャーナリスト伊藤博敏氏が、上田氏の激しく蠱惑的なパーソナルヒストリーに迫る。発売前から「何が書いてあるのか?」との問い合わせも数多い。
350ページ超えの重厚な本書には、自民党の歴代総理大臣経験者や経済人、広域暴力団の親分衆の実名がこれでもかと躍る。マスメディアでは報じられないアンダーグラウンドな戦後日本史に、読者は瞠目するはずだ(以下、文中敬称略)。
『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』連載第2回後篇
秋田犬に刺身包丁で報復
記事の前篇《「同和のドン」はいかにして誕生したか…話題騒然の「上田藤兵衞」本に登場する暴力団幹部の実名を明かす》に引き続き、上田藤兵衞が有名になる前の前半生を紹介しよう。
上田藤兵衞が身を置いた部落解放団体「全日本同和会」は、1960年5月に佐藤栄作首相の肝煎りで設立された。佐藤首相から口説かれ、初代会長を引き受けたのは柳井政雄だ。柳井は山口県の被差別部落に生まれ、かつて任侠の世界に身を置いていた。
〈柳井政雄は1908(明治41)年、山口県吉敷郡に生まれた。父は牛馬商を営んでおり、政雄は四男だったこともあり、高等小学校を中退すると、兄を頼って京都に出て、料理屋で住み込みの小僧となる。
京都では、早くも「無頼の萌芽」を見せている。世話をしていたシェパードが、向かいの洋品店で飼っている秋田犬とケンカになった。シェパードが噛まれて深い傷を負うと、店に飛び込み刺身包丁を握りしめ、秋田犬に“報復”した。
店には居づらくなり、かといって家には帰れない。体ひとつあれば働ける山口県の宇部炭鉱に流れ、そこで働くようになる。気の荒い炭鉱に無頼の血が合ったのか、やがて暴力団の世界に入り、背中に桜吹雪の入れ墨を入れて配下を率いるようになった。小月(おづき)競馬場(下関市)に乗り込み、抗争相手の馬を日本刀で叩き切ったときは、地元紙に大きく報じられたという。
(略)
24歳で出所する際、30台もの車の出迎えを受けながら、「ごくろうさん。俺は、今日限り、足を洗う」と宣言して山口市に戻った。1932(昭和7)年のことである。
(略)
1946年10月、山口市小郡大正町に金物、日用雑貨などを商う小郡商事をオープンする。同社の繊維・洋服部門を任せたのは、戦地から戻ってきた弟だった。〉(『同和のドン』114〜115ページ)