【独自】バンカラ早実時代の「番長列伝」を萩生田光一政調会長に直撃!《二度も停学を食らった武勇伝の真相》
ニッポンの教育
衆議院議員/自民党政務調査会長
萩生田 光一
KOICHI HAGIUDA
1963年、東京都八王子市生まれ。明治大学商学部卒業。八王子市議会議員(1991年4月〜)、東京都議会議員(2001年6月〜)を経て、2003年11月に衆議院議員に初当選(現在6選)。文部科学大臣政務官、自民党総裁特別補佐、内閣官房副長官、文部科学大臣、教育再生担当大臣、経済産業大臣、産業競争力担当大臣、ロシア経済分野協力担当大臣、原子力経済被害担当大臣、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償・廃炉等支援機構)を歴任。2022年8月より自民党政務調査会長。
早実時代に食らった二度の停学処分
田原総一朗 萩生田さんは八王子市の市立中学校を卒業したあと、早実(早稲田実業学校高等部)に進学しました。高校生時代はだいぶヤンチャだったそうですね。卒業パーティのパーティ券を売ってたのがバレて一度目の停学を食らい、朝鮮高校の生徒と乱闘して二度目の停学を食らったそうです。
萩生田光一 それでも退学処分にしなかった先生たちには、今でも心から感謝しています。「薬物を使用したとか、別に法律を犯したわけじゃない。萩生田は自分の学校の後輩たちを守るために、他校とケンカをしたのだ」。そう言って私をかばってくれる先生がいたのです。
田原 萩生田さんは番長みたいな存在だった。
萩生田 今から言えばきっと番長みたいなものだったんでしょうね。おもしろかったですよ。
田原 早実はどんな雰囲気でしたか。
萩生田 ザ・男子校でした。甲子園に5期連続出場した時代だったので、文化祭をやると女子校生が大勢集まってキャーキャー言われたものです。
田原 スポーツはされていたんですか。
萩生田 早実では野球部に入ってましたが、すぐやめちゃいました。
田原 野球は中学のころからやっていたんですか。
萩生田 中学生時代は野球部のキャプテンでした。野球部で言うと、先生との忘れられない思い出があります。1970年代はまだベビーブームが続いていましたので、中学2年生から3年生になるときに「道路のこっち側の生徒は新設校に行け」と機械的に編入を命じられてしまったんですよ。思春期の真っただ中の転校は、子どもにとってすごく酷です。
田原 せっかく野球部で2年間がんばってきていよいよ最高学年になるのに、いきなり「新しい学校に移れ」なんて言われたらたまりませんね。
萩生田 みんな転校なんてしたくないから、人の家の住所を記入したりして抵抗するわけですよ。すると野球部の顧問の先生が「お前がそういうことをやったら、みんなが動揺して新しい学校が成立しなくなる。運命だと思って行ってこい」と言うのです。「冷てえな。ずいぶんひでえこと言うな」と悲しい気持ちになりました。野球部のキャプテンなんだから「萩生田がいなくなったらチームが困る」くらい言ってくんねえのか、と頭にきましたよ。
すると驚くべきことが起きました。転校して新設校の開校式に出かけると、その先生がいたのです。「お前だけ行かせるわけにいかないからな」なんて言って。感動しましたねえ。