この間に世界では、スペインが没落し、かわって英国が7つの海を支配するといわれた巨大な海洋帝国を築いていました。世界の植民地から英国が収奪した富は、莫大な量にのぼりました。大英博物館やルーブル美術館の展示品を見れば、いかに世界から多くの宝物が集まったかがわかります。エジプトなどは現在、持ち去られた出土品の返還を求める交渉をしています。
富が蓄積されると、国内では社会や経済が発展し、人口が増え、物品の需要が増大します。18世紀の英国ではとくに、インドの綿製品の人気が高まりました。そこで需要に追いつくため生産力を上げようと、それまでの手織りの紡績機に代わって、水力を利用した機械紡績機が開発されました。それでも足りず、カートライトが蒸気で駆動する機械紡績機を開発します。そして1769年、ワットが従来の蒸気式機械から復水器(コンデンサー)を独立させることでエネルギー効率を飛躍的に向上させた、本格的な蒸気機関を発明します。ワット式蒸気機関は燃料を75%も節約することができました。
蒸気機関は鉱山の排水ポンプに使われ、さらに汽車にも使用されて、生産や移動にかかる負担を劇的に減らしました。その結果、企業の収益は急伸長し、各種の大工場が建設され、たくさんの労働者が働き、労働者たちとその家族が住む家が立ち並び、英国各地に新しい工業都市が生まれました。こうして世界で初めて起こった蒸気機関による社会変革が「産業革命」ですが、その原動力は、海洋支配によって得た多くの植民地からの富だったのです。
英国で起こった革命の波は、やがて当時の先進国だったフランス、ドイツ、米国にもおよびます。同様に工業を発展させたこれらの国も、安い原料を輸入し、大量生産した製品を輸出できる貿易の相手を求めて、次々と海に出ていきました。それは産業革命による第二の大航海時代の到来ともいえました。しかしその貿易の実態は、軍艦と大砲による強力な軍事力を背景に、アフリカ、アジア、アラブ、南米諸国などの技術力が未発達な国々を服従させるもので、「砲艦外交」とも呼ばれています。
19世紀になると、欧米の列強各国の矛先は東南アジアに向かいます。1842年には、英国が清(当時の中国)との阿片戦争に勝利して、租借地を獲得しました。インド、ビルマ(現ミャンマー)、シャム、タイも英国領または支配地域となり、インドシナ地域はフランス領、フィリピンは米国領、清は約20%が英国、フランス、ロシア、ドイツの領地あるいは支配地域となりました。日本を除くアジア諸国のほとんどが支配下におかれていったのです。
ペリーが驚いた日本人の技術力
こうした世界の動きから隔絶されたかのような長い眠りについていた日本に、ついにその波が到達したのは、1853年のことでした。ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船4隻が、江戸湾入り口の浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市浦賀)に来航したのです。それまで交流のあった外国といえばおもには日本海側の朝鮮や中国であった日本にとって、反対側の太平洋から突如、異国の船が出現したことは衝撃的でした。日本の近代化はこのとき始まったといってもよいでしょう。