2023.02.16

宅見勝を射殺した中野会トップ・中野太郎の自宅を、なぜ同和のドン・上田藤兵衞は訪れたか…歴史的証言がヤバすぎる

同和のドン

自由同和会京都府本部会長・上田藤兵衞氏の衝撃の告白本『同和のドン 上田藤兵衞 「人権」と「暴力」の戦後史』(伊藤博敏著・講談社)が、発売直後から大変な話題だ。すでに2万5000部に達しているこの本には、同和運動、自民党、山口組、バブル紳士、闇社会のすべてをつないだ男が目にした「戦後史の死角」が綿密に綴られている。

連載の前篇《山口組五代目のトップシークレット「肝臓癌」治療が、「同和のドン」に相談された理由《手術は「怪僧」が仕切った》》に引き続き、山口組の抗争にいかに上田氏が巻き込まれていったか、その核心部分を紹介しよう(文中敬称略)。

『同和のドン』連載第6回(後編)

中野会と会津小鉄の抗争の場・崇仁地区

〈もともと山口組と会津小鉄は、木屋町事件をきっかけに山口組の田岡一雄・三代目と会津小鉄会の図越利一・三代目との間で、山口組は京都に進出しない「京都不可侵」の“黙契”があった。だが、現実問題として「利権」があれば取り込みに入るのが暴力団である。

なかでも京都駅前の崇仁地区は、同和運動関係者に暴力団が複雑に絡んで「魔窟」と化しており、1990年代に入ると、中野会と会津小鉄の抗争の場となった。

’92年、’93年、’94年と、中野会を中心とした山口組が、崇仁地区の権益を巡って同和団体のバックについた会津小鉄との間で、殺傷事件を繰り返した。それが嵩じたのが ’95年のことで、6月には双方が14件の発砲事件を引き起こし、中野の自宅や同和団体幹部宅への発砲、放火事件が発生した。

 

同年8月、中野会組員が同和団体幹部を射殺。それを受けて京都府警は、いっそう厳戒態勢を強めていた。その厳戒態勢のなか、会津小鉄系組織の前に動員されていた警察官を山口組系三次団体の組員が誤って射殺した。これが、先に触れた渡辺が使用者責任を問われた事件だった。

’96年2月、泥沼化する抗争に終止符を打つ意味もあって、渡辺の後に山健組を継承した五代目山口組若頭補佐の桑田兼吉、会津小鉄若頭の図越利次、広島最大の暴力団・共政会会長の沖本勲の三人が兄弟盃を結んだ。この時点で、次期山口組組長の有力候補だった桑田と、会津小鉄会三代目の実子で五代目が確実視された図越は「兄弟」となった。渡辺が、「これ以上、京都で抗争を広げたくない」と思うのも無理はない。

だが、襲撃を受けた中野はそうはいかない。「武闘派」「喧嘩太郎」としてのプライドもある。「返し」は行わなければならない。では、それがなぜ会津小鉄ではなく宅見だったのか。一晩で和解を受け入れたのは宅見だが、それを承認したのは、「親がクロといえばシロでもクロだ」という価値観を持つ中野にとっては絶対的存在の渡辺だった。〉『同和のドン』272〜274ページ)

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